「全投入する生」

2015年11月15日(聖霊降臨後第25主日)

マルコによる福音書12章41節~44節

 

「しかし、彼女は、欠乏から、持っているすべてを、彼女の人生全体を投げた。」とイエスは言う。欠乏とは、マイナスである。持っていると言うが、持っていないことを持っているのである。持っていないものを彼女は投げた。持っていないという人生全体を投げたとイエスは言うのである。

我々は持っているものから、献げるのだと思っている。持っていないならば献げることはできないと思う。彼女も投げ入れることができたのだから、持っていたのではないのか。持っているものを投げ入れたのではないのか。持っていないものなど投げ入れることはできないのだから。しかし、イエスは彼女の欠乏から、持っているすべてを投げたと言うのである。ということは、彼女が持っているものは欠乏である。その欠乏から投げるということがここで起こっているのだと言うのである。しかも、「献金箱へと投げ入れている者たちのすべてよりも多くのものを、貧しいやもめは投げ入れた」とイエスは言うのである。彼女が投げたのは、レプタ二枚であった。それが現実に彼女が持っていると見えているすべてである。しかし、彼女はそれさえも欠乏として持っているのである。欠乏として持つということは、マイナスを持っていることである。マイナスは持つことができないが、彼女は持っている、マイナスを。イエスはそう見ているのである。

金持ちたちは溢れるものから投げている。しかし、彼女は欠乏から投げている。「溢れるものから」というのは、余剰である。誰でも余剰があれば、投げ入れるのは簡単である。余剰がある金持ちたちは神のために献げることも同じように余剰として投げているのだとイエスは見ている。いや、誰でもそう思うであろう。余剰がなければ投げないのだから。しかし、投げ入れる額の多さを考えれば、多くを投げ入れているがゆえに、素晴らしい人だと見られる。誰も投げ入れることができない金額を投げ入れているのだからと。ところが、イエスはそのような人たちよりもやもめは多く投げていると言うのである。どうしてなのか。それが「欠乏から投げる」ということである。

「欠乏」とはマイナスであるが、マイナスであるがゆえに、自分のものは何もないと投げるのである。プラス以上の溢れるものから投げる人は、自分のものを投げているのである。自分のものの余剰と思えるものを投げているのである。誰よりも多くの金額を投げるということは、それだけ自分のものが多いのであり、投げる額が多ければ多いほど、その人は金持ちであると人から認められる。そのようにして、献金の額が人の評価になっていく。自分が努力して稼いで貯めたお金だから、自分のお金であると考える。自分のものの余剰は、自分の生活に十分に使ったあとの残りである。残り物の多さが献げる額の多さになる。残り物の競い合いとなる。しかし、やもめには残り物はなく、欠乏しかない。それなのに、献げることが可能となるのは何故なのか。

やもめは欠乏しているがゆえに、神に頼るのである。もちろん、やもめのために生活費を供給する制度がこの当時あったのだ、ユダヤ教の中に。しかし、それは結局彼女が欠乏していることであり、多くの人に支えてもらって生きていることであった。やもめの生活費供給制度は、神への献金から賄われている。従って、やもめがここでレプタ二枚が余ったから献げたということではないのだ。レプタ二枚も彼女のものではないのだ。神のものである。多くの金持ちたちが献げる献金によって賄われているが、神のものである。神のものによって、生かされているやもめは、自分のものを持っていない。自分のものが余っているわけでもない。神のものをもらって、その中からレプタ二枚を献げるということは、神のものを返しているだけである。返しているのだから、彼女は自分のものは持っていない。それゆえに、彼女は欠乏を持っているのだ。欠乏の中にあるがゆえに、彼女は神のものをいただいて生活している。神のものを神に返すことが献金であると彼女は今日献げたのである。これは、自分の余剰を献げることとは次元が違う。彼女は欠乏しかない。神によって生かされ、生活費を与えられ、日々を暮らしているのだ。その彼女の手元にレプタ二枚があった。それだけでは何も買えない額である。貯めておけば、いつかは何かの足しになったであろう。しかし、それを神に投げる。そのような彼女は、自分の生すべてを投入しているのである。

彼女が投げ入れた生は、彼女のその日の生活費の余りではない。彼女の所有がないのであれば、余りなどではなく、欠乏しかないのだ。欠乏から投げ入れるのである、自らの生全体を。生活費を投げ入れたのではない。この献金の行動そのものが彼女の生を表している。それが全投入する生である。イエスが見ておられたのはこの全投入する生である。「生活費」と訳される言葉は、ビオスというギリシア語であるが、「生活費」ではなく「人生」、「生活」が原意である。新共同訳は、文脈に従って、生活費と解して訳している。しかし、原語通りに訳せば「彼女の人生全体を投げた」である。彼女の生すべてを投入したのである。それゆえに、イエスが見ているのは、全投入する生が彼女の生き方となっているということである。全投入する生は、彼女が何をなそうとも全投入する生である。額の多寡では計ることができないのが全投入する生である。お金の額にすれば、多くの金持ちよりもはるかに少ない。しかし、お金持ちよりも多くを投げ入れた。何故なら、彼女の人生がすべて投げられているからである。イエスは、献金の額を評価して、多くを投げ入れたと言っているのではなく、献金に現れている彼女の生き方そのものを語っているのである。それが全投入する生なのである。それは神に人生のすべてを投入する生である。

我々はすべてを神に投入しているであろうか。神の中で生きているであろうか。自分の生活は別に確保しつつ、神との生活を考えていないだろうか。今日の金持ちたちが溢れるものから投げているが、溢れるものがなくなれば、投げないということである。溢れていないのだから、神に投げ入れることはない。これが普通の人間の姿である。ところが、このやもめは全投入するのである。自分のものなど何もないと神からいただいたままに神に返すのである。レプタ二枚がその日の余りのように思えるかもしれない。しかし、これは溢れているものではなく、欠乏からのものである。余ったものを次の日に取っておけば、少しは足しになるかもしれない。しかし、彼女はこの日の生すべてを神に投げたのである。神からいただいたものとして、神にすべてを投げる。これがレプタ二枚が語っていることである。この生は、イエスご自身の生である。イエスの十字架は、全投入する生である。十字架の死に至るまで、神に全投入したのがイエスなのである。そのイエスがこのやもめの生き方を全投入する生として認めてくださった。いや、イエスでなければ認めることはできなかったであろう。見えている額だけで評価する人間には認めることができない生の在り方なのである。

全投入できるやもめは信仰深いのか。信仰深いからそうなるのだと我々は考えてしまう。しかし、信仰深いからということではなく、信仰さえも神からいただいているがゆえに、彼女は自分のものを何も持たず、すべてを神に投入しているのである。その在り方は、神から与えられている。彼女は自分を信仰深いなどとは思わない。ただ、神が与え給うたものをすべて神に投げる。信仰とは、神に全投入して生きることである。しかし、全投入すれば信仰を確認できるのではない。信仰を確認しようと考えることはない。信仰深さを競うこともない。信仰はただ彼女に与えられ、彼女を生かしている。それだけである。それゆえに、彼女は全投入するのである。

神に信頼する信仰を与えられているならば、自分のすべては神のものであることを知っている。すべてである神の中に生かされている。ご自分の生を全投入したイエスがおられて、今あなたは生かされている。あなたのすべては神のもの。全投入したイエスの父なる神があなたを満たしておられる。我らも人生すべてを神に投げ入れて生きていこう。

祈ります。

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