「永遠の言」

2015年11月22日(聖霊降臨後最終主日)

マルコによる福音書13章24節~31節

 

「天地は過ぎ行く。しかし、わたしの言たちは過ぎ行かない。」とイエスは言う。過ぎ行くのは生じたものである。神が造った世界において、生じるようになっているものはすべて過ぎ行くのである。生じたものや我々人間が作ったものは過ぎ行く。時間の経過とともに過ぎ行く。時間の経過とともに朽ちる。それが神の被造世界に生じたものである。それらは、イチジクの木を見て、我々が夏が近いと知ることと同じであるとイエスは言う。夏も来たるが、過ぎ行くのだ。いずれ過ぎ行くものが来る、時間の経過とともに。その時がいつ来るのかはどうでも良いことである。決して来ないということがないがゆえに、イチジクの木から知ることができる。しかし、過ぎ行かないものは、知ることができない。時間の経過とともに来たり、過ぎ行くものは知ることができるが、一度も来たことのないものは過ぎ行くこともない。一度も生じたことのないものは過ぎ行かない。いや、生じなければ過ぎ行かないのであり、来なければ過ぎ行かないのだ。過ぎ行くものの背後にあり続けるものだからである。それが「わたしの言」だとイエスは言うのだ。

ということは、イエスの言たちは生じたものではないし、来るものでもない。生じる現象の背後にあって、あり続けているものである。現象を在らしめているものである。現象を貫いているものである。現象を生じさせているものである。それがイエスの言たちなのだと言うのだ。これはどういうことであろうか。イエスの言は神の言だという意味だろうか。イエスの言たちが生じさせたのがこの世界だと言うのだろうか。イエスは、この世に来たのであり、この世が生じてから来たのではないのか。それなのに、イエスの言は過ぎ行かないのだと言う。これはどういうことであろうか。

過ぎ行かない言は永遠の言である。時間経過の中で生じたものではない。時間経過の中で生じたものは時間経過の中で過ぎ行くものである。しかし、過ぎ行かないのであれば、時間経過を越えている。時間経過を越えているものが永遠なのである。時間の延長を永遠だと、我々は思ってしまうが、そうではない。時間を延長しただけでは、時間経過に支配されている。時間経過が終わりなく続いて行くだけである。その中で生じたものは、終わりない時間の中で生じて、過ぎ行くだけである。イエスの言が過ぎ行かないのであれば、時間経過を越えているがゆえでなければならない。従って、イエスの言は時間経過の中で生じたのではない。時間経過に縛られているのでもない。時間経過によって色あせる言ではない。永遠の言は、色あせず、常に新鮮なのである。イエスの言が常に新しく、常に我々を揺さぶるのであれば、イエスの言は永遠の言である。色あせてしまう言葉は、時間経過の中で生じているだけであり、その時代には持て囃されても、次の時代には見向きもされないものとなる。これらの言葉は、時間経過の中で過ぎ行く言葉である。しかし、イエスの言は過ぎ行かない言。永遠の言。常に新しい言である。

このような言は、我々人間からは生じない。たとえ神から生じたとしても、生じたものは過ぎ行くのだから、生じるのではない。生じるものの背後にあり続けているのだ。それゆえに、イエスの言は常に新しい。常に我々を揺さぶる。常に我々を造り変える。そのような言が如何にしてイエスから語られるのだろうか。イエスが永遠の言を知っているのだろうか。永遠の言は、定式化された言葉ではない。定式化され、これさえ言っておけば良いという言葉ではない。むしろ、言葉を生み出す言。言葉を造り、言葉を新たにする言である。それは、単に語られた言葉や書かれた言葉ではない。それらを生み出す言なのだから、言葉の言である。言葉を生じさせる言である。永遠の言が言葉を生じさせるということは、イエスの言は我々に言葉を与える言である。我々の背後で我々を刺激し、語らしめる言である。それは根源的言、根源語である。

根源語は我々が考えるような言葉ではない。我々が誰かに語ることができる言ではない。我々が誰かに語るときには、我々が根源語を語るのではない。根源語に刺激された我々の言葉を語るのである。我々が自分の言葉で語るとき、その言葉は根源語に刺激されて生じた言葉である。それゆえに、過ぎ行く。時代と共に過ぎ行く。いつまでも、その言葉を聞いていれば良いというわけではない。しかし、イエスの言は根源語であるがゆえに、いつまでも聞き続けなければならない言たちなのである。

この言を聞き続ける者は、過ぎ行くものに左右されることはない。過ぎ行くものに揺さぶられることはない。過ぎ行くものを見ても、来るものがあっても、それに動かされることなく、立ち続けることができる。わたしを新たに造る言がわたしに聞こえてくる限り、わたしは常に新たに造られて行く。我々の耳で聞く言葉ではなく、我々の魂で聞く言こそが永遠の言、イエスの言である。イエスの言は、我々の魂に届く言だからである。

人間の言葉は我々の魂にまでは届かない。人間の言葉がイエスの言から生じたとすれば、我々が人間の言葉を聞いているうちは、イエスの言はわたしの魂には届かない。自分が理解できる言葉を聞きたいと願う者は、イチジクの木から夏が来ることを知るようにとイエスは言う。その時には、夏が近づいたということを知るのである。夏という季節を知るのではなく、何事かを来らしめるそのものを知るのである。それゆえに、新共同訳で「人の子が戸口に近づいている」と訳されている言葉は、実は「それが戸の上に近くある」という意味なのである。「人の子」は原文にはない。三人称単数の動詞だけで語られているのだから、「それ」としか訳せない何かである。何事かが近くにあるということである。その「それ」は神が持っている何かであり、神の働きであり、神の力である。従って、人の子が戸口に近づいているのではない。何事かを来たらせる神の力が近くにあるということである。来たるもの自体を知ったところで、何の益にもならない。来たらせる力こそが我々が知るべきことである。来たらせる力は過ぎ行かない。過ぎ行くものを生じさせる力は過ぎ行かない。それゆえに、イエスの言も同じ過ぎ行かない言。来たらせる神の力。我々を新たに生じさせる力である。我々が聞くべきは、この言、根源語なのである。

我々がイエスの言を聞き続けるならば、我々は根源語が何であるかを知るであろう。人間の言葉を聞き続けても、知ることはない。人間の言葉の背後で働いている根源語を聞くのである。それが、我々が礼拝に招かれている意味である。根源語を聞き続けることで、我々の魂が生きるのだ。「聞け、そしてあなたがたの魂は生きる。」とイザヤを通して語り給うたヤーウェの言と同じである。イエスの言は、我々の魂が生きるようになる力である。これを使徒パウロは「十字架の言」と呼び、「神の力」であると言ったのだ。イエスの言は、十字架の言である。イエスの言は、神の力である。イエスの言は、我々を救う言である。この世に生じて、過ぎ行く我々は、朽ちてしまう存在である。しかし、イエスの言を聞き続ける者は、過ぎ行かない言に包まれ、過ぎ行かないわたしを生きる。終末においても、人の子が雲の中で来るのを見るのだ。雲の中で来るのだから、視覚的には見えない。しかし、イエスの言を聞き続けた者には見える。雲に隠されていても、その栄光が見える。その力が見える。イエスの言によって新たにされているわたしの魂が見る。選ばれた者たちとは、そのような者たちである。この世の過ぎ行くものをはぎ取られた者たちである。過ぎ行くものに頼らない者たちである。過ぎ行くものを越えて、永遠の言のうちに生きる者たちである。

あなたがたは、イエスの言を聞いているのなら、選ばれた者たちである。永遠の言を聞いているのなら、選ばれた者たちである。選ばれていることは、誰にも分からない。しかし、聞き続けた者たちには分かるのだ、イエスの言が過ぎ行かない言として、最後にわたしを救う言であることが。そのために、我々は聞き続ける。神の力、十字架の言を聞き続ける、わたしの魂が生きるために。

祈ります。

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