「闇を開く方」

2015年11月29日(待降節第1主日)

ルカによる福音書19章28節~40節

 

「天における平和。高きところにおける栄光。」と群集は叫ぶ。この叫びは、どこから起こってきたのか。ファリサイ派の人たちが止めさせるように求める言葉に対して、イエスは言う。「叫びは止められない」のだと。叫ぶ者を止めても、石が叫ぶと。叫びは人間の思いではなく、人間の口から叫ばれるのでもない。叫ばせるお方がいて、叫びが起こるのだ。それゆえに、「天における平和。高き所における栄光。」も、平和であり、栄光であるお方ゆえにある。神こそが平和であり、栄光である。神が平和の源であり、栄光そのものである。この認識が与えられた者が叫ぶ。それは止めても止められない。人間の思いではないからである。まして、叫ぶはずのない石が叫ぶのだ。平和と栄光を認識することによって叫んでいるわけでもない。平和と栄光そのものが叫びを起こすのである。たとえ石であろうとも。ということは、叫びを起こすお方を止められないのだとイエスは答えているのだ。

しかし、そのお方のことが隠されているならば、止められるのだと思い込んでしまう。それがファリサイ派の人たちの認識なのである。日課に続く箇所で、イエスはこうおっしゃっている。エルサレムに対して泣きながら語る言葉である。「もし、これらの日々において、あなたが認識していれば、平和に対する事柄を。しかし、今、あなたの目から隠されている。」と。隠されているものである平和に対する事柄とは、神御自身が平和であり、栄光そのものであるという認識である。人間が造り出せるものではない平和である。それゆえに、叫ぶ群集は神が開いた認識によって叫んでいる。彼らが求める平和のためではなく、神によって開かれ、見せられた平和のことを叫んでいるのだ。天における平和。高きところにおける栄光と。

これに対するものは、地における争い、低きところにおける闇。栄光とは輝きであるがゆえに、地における争いと闇とが、天の平和、高き栄光の対照的なものである。叫ぶ群集も地における争いと闇の中で生きていた。しかし、イエスのロバによる入城において、すべてのデュナミスを見て、叫ぶ。彼らが闇を開かれ、力の源を示されたからである。自らに隠されていた力の源は神であったと啓示されたからである。それゆえに、彼らの叫びは彼らの叫びではなく、叫ばせるお方の叫びなのだ。彼らが叫ばなくとも、叫び自体は失われず、石さえも叫ばせるであろうと、イエスは言うのだ。

我々が思い込んでいるように、我々が平和を作り出せるとしたら、世界は平和であっただろう。世界に争いが絶えないのは、我々が平和を作り出せない存在だということである。この認識の欠如によって、我々は誤った方向に向かい、闇に閉ざされてしまったのだ。誰もが平和を求めるが、自分の平和を求めている。それゆえに、争いが絶えない。自分の平和を維持するために戦いが起こる。自分の平和を作るために争いを起こす。それが我々人間なのだ。この認識の欠如によって、教会さえも争いの場と化してしまう。教会を自分たちが作ると思っているからである。教会は神が形作る、キリストの体として。我々が作ろうとする教会は結局人間の教会である。神の教会は神が作る。神の言が作る。この認識の欠如によって、我々は争いを生み出し、地上の栄光、自分の栄光という闇を求めてしまうのである。平和は神が作る。栄光は神御自身。しかし、闇に閉じこもった我々の目からは隠されている。我々には、自分の平和しか見えない。自分の栄光しか見えない。それが自分にとって最も大切なものだとしか見えない。神の平和、神の栄光が見えない。地上は闇に閉ざされている。地上は自分のものしか求めない。自分が平和であれば、他者が苦しんでも良い。自分が栄光を与えられれば、他者が蔑ろにされても良い。闇の世界ではこれが当然のこと。弱肉強食の世界が地上の世界、地上の認識。争いで平和を作り出そうとする地上の世界。この世界に、神の子イエスは来たり給うた。真実の平和、真実の栄光の認識を啓くために。闇が開かれ、神の光に照らされるために。

エルサレムに入城するイエスは、闇を開くために入城する。闇の代表であるエルサレムを開くために入城する。その姿を見て、群衆が叫ぶ。「天における平和。高きところにおける栄光。」と。この叫びは闇を開かれた叫び。闇から輝き出る光。群集を叫ばせる光。それがイエスである。イエスは闇を開くお方。闇を開く光。闇に輝く灯。闇に沈んでいるエルサレムに入ってくる。光なるイエスが入ってくる。真実を照らし、あからさまに見せるイエス。それゆえに、闇を愛する者はイエスを憎む、十字架の上に遺棄して。

それでも、イエスはそのためにエルサレムに入っていく。闇の中に入らなければ、闇は開かれない。闇の外で光っていても、闇は開かれない。闇の中に入ってこそ光は闇を開く。それゆえに、イエスは闇に入るのだ。あえて入るのだ。闇の中で真実を求める人間のために。闇の中で真実を生きられなくされている人間のために。闇の中で安穏と暮らしている人間は、入ってきた光を嫌う。嫌うがゆえに、十字架の闇に閉ざそうとする。イエス・キリストの降誕はこの闇への降誕である。闇を開くための降誕である。闇の中に入り、開くための降誕である。それゆえに、キリストは十字架を引き受けるために生まれ給う。死ぬために生まれ給う。苦難を引き受けるために生まれ給う。

待降節を生きる我らは、苦難を引き受ける御子を迎える。わたしの闇を開き給うお方を迎える。我々が天に目を向け、高きところに魂の根拠を見出すために、降り給うイエス・キリスト。待降節は、このお方を待つとき。一日一日、時間をかけて過ごしながら、我々は待つ。忍耐して待つ。苦難を引き受け給うお方の忍耐を思いながら待つ。わたしが真実の平和と栄光を認めることができますようにと待つ。

待降節に我々は天における平和を求める。高きところにおける栄光を仰ぐ。我々が献げたものは神のもの。神に献げる心を与えられて献げる。それゆえに、神のもの。神御自身が天における平和を生きておられるがゆえに、地にも平和を来たらせ給えと求める。わたしは争いしか生み出しませんと頭を垂れる。人を苦しめることで、私の平和を実現しようとしてしまいますと、低くされる。すべての人が低くされるとき、地には天における平和が実現する。地には高きところにおける栄光が輝く。神御自身が我々をご自分の民として生かしてくださる。そのときのために、神は独り子を与え給うたのだ。十字架の死に引き渡すために、地上に生まれさせ給うたのだ。待降節を生きる我らは、この神の心を認識する。わたしのために苦しみを引き受け給うために生まれる御子によって、神の心を認識する。我々の思いではなく、神の意志がなっていきますようにと。

待降節を過ごす我らの心に御子の姿が現れますように。御子の心が宿りますように。御子の力デュナミスが生きて働きますように。祈りつつ、時間をかけて、自らを省みて歩もう。御子イエス・キリストのものとして生きて行けますように。

今日、共にいただく聖餐は、このみ子をいただくこと。パンと葡萄酒の形でいただくこと。「これはわたしの体である。これはわたしの血における新しい契約である。」と語り給うイエスの言に従って、いただくこと。

イエスはあなたのうちに宿りたいのだ。あなたのうちで生きたいのだ。あなたのうちなるものを造り変えたいのだ。真実の平和と栄光を求める人間として、我々が頭を垂れ、謙虚に歩むことができるように、と。キリストの体と血があなたを神の子として造ってくださる。神の平和と栄光の中を生きる者としてくださる。感謝して受けよう。あなたを思う神の思いを受けよう。あなたを愛する神の愛を受けよう。あなたを守る神の平和をいただこう。あなたを讃美する者としてくださる神の栄光を仰ごう。

待降節を大切に過ごして至るクリスマスが、あなたの心に平和をもたらす。罪深いわたしを平和のうちに生かしてくださる。一日一日を大切に過ごして行こう。あなたは神のものなのだから。キリストが開き給うあなたの闇が光に満たされますように。

祈ります。

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