「共に見るために」

2015年12月6日(待降節第2主日)

ルカによる福音書3章1節~6節

 

「見るであろう、すべての肉は、神の救いを。」と預言者イザヤが預言した紀元前538年。イスラエルの民はバビロン捕囚から解放される。ペルシャのキュロス王によって。荒れ野になってしまった母国イスラエルに、主の道が整えられる。谷が埋められ、山と丘が低くされる。曲がった道がまっすぐになり、でこぼこ道が平たんに。すべての存在が同一平面上に生きることになる。こうして、ヤーウェの栄光が覆いを取り除かれ、すべての肉が共に見る。預言者イザヤが語ったのは、「ヤーウェの栄光」であった。ギリシア語に訳された際に「神の救い」が付加されている。「主の栄光が現れ、すべての肉が神の救いを見る」と。ヤーウェの栄光が見えなくなっていた罪人たちに、覆いが取り除かれる。ヤーウェの栄光が見える。それが「救い」であるとイザヤは語ったのだ。

覆いを除かれることで、見えるようになるヤーウェの栄光とは、すでにあり常にあった栄光である。それを認めることができなかったがゆえに、ヤーウェに信頼することができず、バビロン捕囚という苦難を経験することになったイスラエルの民。預言者イザヤが覆いを取り除くのではない。神が人間の覆いを取り除く。神が人間を導く。人間は神に背いた。それでも神が肉なる者の覆いを取り除く。素直に取り除かれるまでには、多くの苦難が必要であった。ヤーウェから受けた苦難によって、イスラエルの民はようやくヤーウェの栄光を見ることができる。苦難を通った者に見えるヤーウェの栄光。それは、この世とは逆のところに輝く栄光である。

それゆえに、洗礼者ヨハネは「悔い改め」を宣教した。「悔い改め」メタノイアが理性の変容であるがゆえに、一般的理性から方向転換した理性、逆転した理性で生きることである。この世で価値があると思うことに価値はなく、愚かなことをすると思えることに神の心がある。それゆえに、ヨハネの許に来た人々にヨハネはこう言う。「下着を二枚持っている者は、持っていない者と分かち合え。」と。「パンも同じように」と。二つ持っているだけなのに、それを分かち合うということは、一般的にはしなくても良いではないかと思える。しかし、あえてそうせよとヨハネは勧める。そうしたからと言って、その人が良いことをして救いのための徳が積まれるということではない。徴税人たちにも「あなたがたに命じられている以上のことを行うな」と言う。命じられている額以上のものを取り立てて、私腹を肥やすということがないようにと。自ら命じられていることに留まることである。それ以上に出ることは悪である。

悪に流されないためには、越えないこと。自らを弁えること。自分が肉に過ぎないことを弁えていること。それだけが平らな道である。すべての谷が埋められ、山と丘が低くされる。皆同じレベルに立つ。そのとき、ヤーウェの栄光をすべての肉が見ることになる。分けてやる人が偉いわけではない。もらう人が蔑まれるわけでもない。皆が神の恵みに与る。そうなるとき、ヤーウェの栄光が現れる。人間は肉に過ぎない。肉であるがゆえに罪深く、してやったと思い、感謝せよと傲慢になる。肉であるがゆえに、してもらったら、卑屈になる。自分がしてやる側にいたら尊敬されるのにと思う。肉であるがゆえに、してやって盛り上がり、してもらって落ち込む。結局、同じところを向いている。埋められ、低くされるなら、同じになる。ところが、我々は自分で埋められることはできず、低くされることもできない。どちらも受動態なのだから、受け取るだけなのだ。

では、いつ低くされるのか、いつ埋められるのか。我々が逆方向に向きを変えるときである。理性の変容は、自分でできるものではない。変容させられることを受け取るだけなのだ。しかし、誰がどのようにいつ変容してくれるのか。神ヤーウェはいつもなしてくださる。我々が受け入れれば、いつでも。受け入れない我々が、覆いをかけられている。いや、自分で覆いをかけている。この覆いを取り除くのは、苦難という神の恵みに他ならない。

バビロン捕囚という苦難を通して、イスラエルの民、預言者たちは自らの生きる向きを変えさせられたのである。苦難を自らが招いたことと受け入れたとき、神が苦難を与え、我々の向きを変えてくださったのだと知ったのだ。苦難を与える神がいる。向きを変えてほしいと願う神がいる。そのお方の声が、荒れ野で呼んでいる。ヨハネは、この声ではない。この声を聴いた者。この声によって、向きを変えさせられた者。ヨハネは自らが聞いた声を伝えた。それが、ヨハネの上に生じた神の語られた言であった。

ヨハネは、神の語られた言によって、向きを変えられた者として、宣教した、「悔い改め」を。罪の赦しの方へと向きを変える「悔い改め」を。罪の赦しへと向きを変えるのだから、今まで罪赦されなくとも良い者として生きていたということである。罪赦される方向へ向きを変えるのは、罪を自覚した者である。今までは、罪赦される方向ではなく、見返りを求める方向で生きていた。何かをすれば、見返りを求め、してやったとうそぶく。してもらえば、落胆し、自分はダメなのだと落ち込む。どちらも見返りを求めるがゆえに、そうなってしまう。ただ、与えることができない。ただ、もらうことができない。ただ、分かち合うことができない。我々は罪深い肉であるがゆえに、そうなってしまう。これを逆転するのは、自分ではできないのだ。

苦難を経験すれば、自分も少しは増しになるのかと思い、苦難を求めてもそれは苦難ではない。自分が何者かになるために、獲得しようとすることと同じだからである。苦難は被るものであり、被るとき引き受けるものなのである。引き受けるとき、我々は変えられている。生きる向きを変えられている。悔い改めが与えられている。それが、神ヤーウェの栄光が現れること、覆いを除かれることである。上にいると思う者も、下にいると思う者も、共に見るのだ、ヤーウェの栄光を。神の救いを。すべての肉が見ると言われているのだから。

苦難は神が与え給う。イエス・キリストをこの地上に生まれさせた神が与え給う。イエスを与えたお方がまず苦難を引き受け給うたのだ。この世に独り子を与えるという苦難を引き受け給うたのだ。この世に与えられた苦難を引き受け給うイエスも十字架を引き受け給うた。イエスをキリストと告白する者も苦難を引き受けて生きる。独り子の誕生が苦難の内に輝く栄光の誕生である。すべての肉が引き受ける生き方をなすとき、ヤーウェの栄光は地の上に明らかに見える。すべての者が見る。共に見る。

イエス・キリストは、すべての肉が共に見るために、地上に来られる。我々が共に見るために、来られる。神の栄光が覆いを取り除かれるために、来られる。キリストが生まれ給うのは、苦難を引き受けているところ。苦難においても生きて行かざるを得ないようにされている者のところ。曲がりくねって、でこぼこで、険しい道が、平たんな道になるために。道は道なのだと生きるために。曲がりくねっていてもまっすぐに歩むために。でこぼこでも平たんに歩むために、キリストは生まれ給う。神の栄光を見るとき、すべての肉は平たんに歩むであろう、苦難の道を、でこぼこ道を、曲がった道を、まっすぐに。

我々が生きて行く道は、苦難の道である。平たんな道はない。キリストも同じ道を歩まれた。しかし、神の意志がなる道である。神のご意志に従う道である。神の栄光が現れる道である。たとえ苦しくとも、神の声が聞こえる。神の声が叫ぶ。「ナハムー、ナハムー、アミー」と。「慰めよ、慰めよ、わが民を」と。この声は苦難の中に聞こえる神の声。お前はわたしの苦難を知っていると叫ぶ声。お前のために、わたしはイエスを送ったのだと叫ぶ声。この声が聞こえたなら、我々は臆することなく、まっすぐに歩もう、声に向かって。

我々を愛し給う神は、独り子イエスを我々に与え、イエスは苦難を引き受けるため、地上に生まれ給うた。このお方の体と血は、我々に神の栄光を現す。あなたのために苦しんだわたしを受けよと。わたしと共に生きよと。感謝して受けよう。共に見るために、神の栄光を、肉なる我らすべてが。

祈ります。

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