「語られた言」

2015年12月13日(待降節第3主日)

ルカによる福音書1章26節~38節

「神から語られたすべての言は不可能ではないから」と天使ガブリエルは言う。ヘブライ語でガブリエルは「神の戦士」。その語源ガブーラーは「力」、「戦力」、「強さ」を表す言葉。神の強さ、神の力を伝えるのが「神の戦士」ガブリエルの働き。ガブリエルが語る言葉は神から語られた言。神の強き言。神の力ある言。天使に力があるのではない。ガブリエルは神の力を伝え、伝えられた者を神の力が包む。その力は「語られた言」のうちにある力。語られた言こそが神の力そのものである。天使ガブリエルは語られた言を伝えるだけである。伝えられた言葉を受け取り、神の言の力に包まれるならば、「不可能ではない」状態にされるのである。それゆえに、ガブリエルは言う。「神から語られたすべての言は不可能ではない。」と。つまり、すべての言は可能であると。しかし、ここで否定形で語られる意味は何なのか。
否定形であるということは、人間的思考が「不可能であると考える」ことを否定するということであろうか。人間的に見て不可能と思えることも不可能ではないということである。人間が否定しても、神から語られた言は不可能を否定する。人間的思考を否定する力こそが、神の力である。人間的に否定せざるを得ないとしても、神から語られた言は否定できないということである。否定できない言が語られたのだ。人間が如何に否定しても否定できない言が神の言、神の力。それゆえに、ガブリエルはエリサベトの出来事をマリアに伝えるのである。人間的に否定的状態に置かれていたエリサベトが身籠っている。エリサベトの出来事は人間的思考だけではなく、人間的限界を否定する神の力を証しているのだと。
人間的限界がある。人間なのだから限界がある。それは当然である。如何に努力しても越えられない限界がある。それは神が定めた限界。人間が越えてはならない限界。その限界を越えて、神の力が働く。エリサベトにはすでに働いていると天使ガブリエルは言う。たとえマリアが受胎を在り得ないことと否定しようとも、否定を否定する神の力はすでに働いている。それゆえに、マリアが否定することを否定する言がガブリエルが伝える言なのである。従って、マリアは否定できず、応える。「御覧なさい、主の女奴隷。わたしに生じますように、あなたの語られた言に従って。」と。
マリアは自らを「主の女奴隷」と表明する。それは、主の命令に従わざるを得ないということである。マリアは主なる神の奴隷であるとの認識を持っているのだ。この認識はどこから来たのか。我々の認識は我々自身が出来事を見て、言葉を聞いて、ありのままに見、ありのままに聞くときに認識となる。自らの認識が間違っていると思い、疑問を感じるならば、それは認識としてわたしのうちに定着することはない。マリアがガブリエルの言をありのままに聞き、受け入れたがゆえに、彼女の認識は「主の女奴隷」という認識に至ったのである。ありのままに聞くのが奴隷だからである。主人の言を聞いたときに、自らの思考に従った判断をしないのが奴隷である。主人が語ったことを実行するのが奴隷なのである。マリアがこう自らを認識するのは語られた言の力による。語られた言がマリアをこの認識へと導いた。ありのままに聞いた言がマリアに神の力として働いたのである。
それゆえに、マリアはこう言う。「わたしに生じますように、あなたの語られた言に従って。」と。「わたしに生じますように」。マリア自身に生じることがガブリエルによって語られた言であった。それなのに、どうして「わたしに生じますように」と言うのであろうか。「あなたの語られた言に従って」というのだから、当然マリアに生じるのである。マリアが応えなくとも生じる。マリアが拒否しても生じる。マリアが生じないで欲しいと願っても生じる。それが神から語られた言の力である。マリアが承認しなくとも生じる神の言が生じますようにと願うのであれば、その願いは承認でしかない。神の言を受け入れるということでもない。神の言を信じるということでもない。神の言は生じるのであるとマリアは語っているだけなのだ。
従って、マリアは自分自身に生じるべき出来事を語った言の力を告白しているだけである。承認するのではなく、受け入れるのでもなく、ありのままに「その通り」であると語っているだけなのだ。神から語られた言は不可能ではないということをその通りと語っているマリア。語られた言の力によって、マリアはこう語らざるを得ないところに導かれている。これこそ「恵まれてしまっている者」なのである。彼女が天使ガブリエルのこの言を耳にしたそのときに、すでにマリアは「恵まれてしまっている者」とされていた。彼女が「わたしに生じますように」と応えたから、「恵まれてしまっている者」となったのではない。天使がマリアに語る前に、神の許で語られた言が生じている。その言をガブリエルは伝えただけなのだから。それゆえに、マリアは言を聞く前に恵まれてしまっていた。すでに恵まれてしまっている者であるがゆえに、天使の言を聞くことができた。こうして、マリアが天使の言を聞き、天使とやり取りすることにおいて、次なる天使の言が実現していく。「マリア、恐れるな。あなたは見出す、恵みを、神の前で。」という天使の言は、マリアが天使の言を聞くうちに実現していくのである。最終的な天使の言に至ったときには、マリアは恵みを見出していた。それゆえに、「わたしに生じますように、あなたの語られた言に従って」とマリアは言うのである。それは、彼女が恵みを見出したがゆえに、語るようにされた言葉であった。
マリアの信仰の従順の姿を我々は良く考える。マリアのように従順に生きるならば神の恵みが注がれると考えてしまう。従順がマリアから生じ、恵みが神からご褒美として与えられると考えてしまう。ところが、恵みが恵みであるのは報酬やご褒美としてではなく、受けるに値しないにも関わらず与えられることが恵みなのである。それゆえに、恵みを与えられているということは、マリアの信仰の結果ではなく、マリアの状態に関わりなく、あくまで神の憐れみである。さらに、恵みを見出すのは、恵みを与えられている者なのだから、与えられている恵みを見出すだけである。それゆえに、マリアには何も力はない。誇るべきものもない。ただ神の言の力があり、神の恵みの力がある。それが今日語られている言なのである。
結局、マリアは何者でもない。神から語られた言が恵みとして働き、恵みを見出させ、マリアに応えさせている。語られた言の力に覆われた者がマリアなのである。すべての者がこうなるわけではないのだから、神に選ばれた者と見られる。しかし、誰も選ばれたいと思わないであろうことに選ばれているマリア。彼女は、恵まれてしまっているが、苦難を負わされた。いや、苦難を恵まれてしまっているのである。結婚する前に妊娠し、旅の途上で子を産み、生まれた子が十字架に死ぬ。何が恵まれてしまっているだろうかと思える生涯。この生涯のどこに神の恵みを見出せば良いのかと思える。それでもマリアが「わたしに生じますように」と応えた言葉は生じるのである。語られた言が恵みそのもの。語られた言がマリアに力を与え、神の恵みを見出すように導き、苦難を負う人生へと送り出したのである。マリアの生涯は、神から語られた言は不可能ではないという天使の言に規定された生涯である。マリアは自らに生じるすべてが「神から語られた言」であることを生きた。苦難を恵みとして生きた。イエスの誕生も死も恵みとして生きた。神は、マリアが苦しむであろう生涯を恵みとして与えた。マリアが恵みとして喜び生きるようにと与えた。誰も生きることができないであろう生涯を引き受け生きる力を与えた。それゆえに、マリアの生涯は神が恵みとして与え、恵みとして生かし、恵みとして引き受けさせた生涯なのである。マリアを愛する神の語られた言の力に包まれたマリア。誰も選ばれたくない選びを受けたマリア。このマリアにおいてこそ生まれ来るイエスを喜び迎えよう。語られた言に従って。
祈ります。

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