「与える愛」

2015年12月24日(降誕前夜礼拝)

ルカによる福音書2章1節~20節

 

「ベツレヘムまで実際に通り行き、見よう、出来事となってしまっているこの語られた言葉を、主がわたしたちに語られた(言葉を)。」と羊飼いたちは互いに言って、ベツレヘムに向かった。自分たちに語られた出来事となってしまっている言葉だと彼らは言う。主が語られた言葉は出来事となってしまっている。それゆえに見ることができるのだと彼らは言うのだ。出来事となってしまっているがゆえに、見ることが可能である。出来事とならない言葉もあるのだろうか。いまだ出来事となってしまっていない言葉がある。それも語られてしまったときには出来事となってしまうのである。心に思っているだけでは、出来事とはならない。その心から口を通して語られたときに出来事となる。言葉は言葉として語られてこそ言葉である。同じように、言葉を聞いた者の反応も聞いたように生きる者と聞いて終わる者とに分かれる。

聞いて終わる者は聞いていない。聞いたように生きる者は聞いている。この違いが生じるのはどうしてなのか。どちらにも言葉は聞こえているのではないのか。どちらにも語られた言葉がそこにあるのではないのか。確かに、聞いて終わろうと言葉は語られている。聞いたように生きるときだけ言葉が語られているのではない。言葉は言葉として生じているのだ。それなのに聞いたように生きる者と聞いて終わる者との違いが生じるのは何故なのか。聞く者の耳の問題なのか。聞く者の心の問題なのか。聞く者の頭の問題なのか。何かが違うのだ。いったい何が違うのであろうか。どちらも同じ人間なのに。聞いた言葉が聞いただけで消えてしまうのは、言葉が何もしなかったのだろうか。消えない人間にはその言葉が何かをしたのだろうか。

語られた言葉を聞いた羊飼いたちはその言葉を見に行った。その言葉が実際に出来事となる場所へと見に行った。見に行くという行動を起こさせたのは語られた言葉である。語られた言葉が出来事となることを見ようと動いた羊飼いたち。彼らはどうしてそうなったのか。それは自分たちに語られた言葉として聞いたからである。自分たちが語られた対象であると受け取ったからである。自分に語られたことだから見に行こうと思ったのだ。自分のことだから言葉が出来事となることを見ようと思ったのだ。他人事ならば見に行かない。聞いただけで終わる。

しかし、それだけではなく、語られた言葉を信じているのだ。それを確かめに行こうとするのは信じているからである。信じる心があるからである。羊飼いたちは夢でも見たと思っても良かった。幻覚だと思っても良かった。それなのに、彼らは聞いた言葉が出来事となると信じて、行ったのだ、ベツレヘムに。わざわざ見に行くということにおいて、彼らが信じていることが分かる。語られた言葉が自分たちに語られたのだと信じているだけではない。語られた言葉が真実であると信じている。だからこそ、見るために行くのだ。

この信仰はどこから来るのだろうか。信じることができるのは、信じるべき人である。信じない人は聞いても聞き流す。聞き流すのは言葉と共に来たった信仰を受け取っていないからである。この信仰を受け取ることができるのはどのような人なのか。羊飼いたちには信仰があったのか。いや、彼らが言葉を聞いたときに、言葉を自分の価値観で判断しなかったのである。それは、思考を停止したということではない。ただ言葉の中に入ったのである。言葉が彼らを包んだのである。考えないのではなく、思考を越えた世界に包まれたのである。

包まれる人は、ありのままに受け取る。ありのままに包まれた人が言葉を自分のために語られたと信じる。そして、言葉に従って行動する。行動する力は言葉から来ている。言葉自体が彼らを動かしている。言葉のうちにある真実が彼らを動かす。言葉はすべてを与える。与える言葉として働いている。与えられた言葉が彼らのうちで働いて、彼らをベツレヘムへと送り出した。その結果、彼らは見つける、ベツレヘムの嬰児を。この言葉はいったいどのような言葉なのだろうか。動かし、送り出し、見つけさせる言葉。羊飼いたちを動かした言葉が彼らにすべてを与えた。彼らが動き出す力を。彼らが見つける忍耐を。彼らが見出すと信じる信仰を。

羊飼いたちはこの言葉に包まれて、言葉の力によって嬰児を発見したのだ。飼い葉桶の中に横たわる嬰児を。この飼い葉桶の嬰児の発見が、彼らに与えられる「しるし」だと天使が語った通り。「しるし」とは本体を指し示すもの。本体が何であるかを指し示すもの。飼い葉桶の嬰児が「しるし」なのではない。飼い葉桶の嬰児を発見することが「しるし」である。飼い葉桶の嬰児を発見させる力、それが「しるし」が指し示すもの、「信仰」である。

「信仰は聞くことから」と使徒パウロが言う通り、羊飼いたちが聞いたことによって、彼らに信仰が来たった。「救い主が生まれた」という天使の言葉は信仰の言である。信仰の言が、彼らを動かした力である。彼らに信仰を与え、動かし、支え、見つけ出させ、喜びに満たした言。それが信仰の言。

何の資格もない羊飼いに語られた言葉。社会の外で生きざるを得ない羊飼いたちに語られた言葉。社会の中に生きる者たちから蔑まれた羊飼いたちは、誇るべきものを持っていない。自負を持っていない。それゆえに、聞いた言葉がありのままに包む力に包まれた。言葉が持つ力に包まれた。我々人間は、誰かの言葉によって力を得たと思うことがある。しかし、すぐに忘れてしまう。人間の言葉の力は尽きてしまう。真実の言葉は力を与え続ける。与えられた力がわたしを動かし、支え、実現させるまで働き続ける。この言葉は「与える」言葉である。すべてを与える言葉である。自らが実現する力を与え続ける言葉である。羊飼いたちが聞いた言葉はそのような力ある言葉だった。神の言だった。「与える」言葉だった。与え続ける言葉だった。

その言葉に従って、羊飼いたちに命が与えられた。彼らの命が輝くために与えられた言葉。それが今日、彼らが聞いた言葉なのだ。語られた言葉は「今日」だった。「今日、あなたがたに、救い主が生まれた」と。いつか生まれるのではない。今日生まれたのだと。それゆえに、今日彼らはベツレヘムに行った。聞いた言葉が生きるのは今日。明日でも明後日でもない。今日なのだ。今日聞いたのだから。それゆえに、彼らは行ったのだ、今日、ベツレヘムに。

天使が語った言葉は神の言だった。すべてを与える言葉だった。羊飼いたちに与える言葉だった。彼らに命を与える言葉だった。独り子を与える愛から語られた言葉である。愛に理由はない。愛に意味はない。愛は愛である。愛することに理由や意味を求めても愛することはできない。愛を受け取ることもできない。愛には理由がない。ただ愛する。ただ与える。それだけである。それでも目的はある。与えるのだから、目的はある。与えた相手が愛する者として生きることである。神が羊飼いたちを愛する者として新たに造る言葉を語った。天使はその言葉を伝えた。羊飼いたちはその言葉に生かされ、言葉が出来事となることを見出した。言自体を愛した。出来事となった言葉を愛した。理由なき愛に動かされて、理由なき発見をした。愛はただ与えるのだと。愛はただ生きるのだと。この世が決めた価値によって締め出され、与えられない生を生きざるを得なかった羊飼いたち。その彼らにただ与えるお方が語った言葉が生じた。彼らを愛するお方が語った言葉。その言葉が彼らを生かした。彼らはこの言葉から与えられた力を、これからも生きて行く。如何なる状況にあろうとも力を得る。言葉を語られたお方、神の力に包まれて。

今日、言葉を聞いているあなたがたにも力が与えられる。あなたの人生を造り、愛し、導き給う神が今日あなたに語っている言葉を聞いたのだから。嬰児を発見した羊飼いたちと共に、出かけて行こう、あなたの人生の道を。クリスマスの嬰児をあなたに与えた神の愛の中で。ありのままに受けよう、神の力、神の愛の力を。あなたを愛する者として造る、独り子を与える神の愛の力を。

クリスマスおめでとうございます。

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