「腕に受ける言」

2015年12月27日(降誕後主日礼拝)

ルカによる福音書2章25節~40節

 

「彼は受けた、彼を、曲げられた腕の中へ。」とシメオンについて語られている。シメオンは曲げられた腕の中へと嬰児イエスを受けた。そして、讃美して言う。「今、あなたは解放する、あなたの奴隷を、ご主人様。あなたの語られた言葉に従って、平和のうちに。」と。自らの曲げられた腕の中へと嬰児を受けたとき、シメオンは言うのだ、自らの主人である神に向かって。「あなたは解放する」と。「あなたの語られた言葉に従って」と。「平和のうちに」と。シメオンは主人の奴隷であると言う。神の奴隷であると言う。この奴隷が解放されるということは、神が自らの主人ではなくなるということではないのかと我々は思う。奴隷が解放されるならば、自由人として生きることになるのだが、自由人としての責任を負うということである。神に自由に従う者として生きることである。何者にも強制されることなく、報酬を求めることなく、自由に神に従う。それが主人である神が解放したときに起こることである。それこそが神の救いなのだとシメオンは讃美するのだ。その救いは「神が語った言葉に従って」起こる。それゆえに、シメオンは曲げた腕の中へ受けた嬰児において、神の救いの言葉を確認したのだ。シメオンの腕に受け取られた神の言。それがイエスである。

神が聖霊によってシメオンに告げていた通りに、シメオンは解放を受けた。救いを腕に受けた。神の言を腕に受けた。一つの命として受けた。完全性として受けた。完全なる一つの命として受けた。それが「平和のうちに」受けたことであり、「平和のうちに」解放する神のみ業である。「平和」とはヘブライ語ではシャロームである。シメオンはシャロームのうちにある解放を語っているのだ。それは完全性としての「平和」である。シャロームとは、戦争のない状態ではなく、欠けのない状態である。欠けがなく完全であることがシャロームなのである。欠けがないということは、丸い球体のようなものである。これをフリードリッヒ・フレーベルは第一恩物とした。フレーベルの幼児教育の思想は、この球体を基本として認識する自然観察を背景に持っている。すべては統一であるとフレーベルは言う。統一の基本形は球体であり、そこからさまざまな形が派生する。しかし、最終的には球体に戻る。従って、球体は初めであり終わりである完全なる形である。これを「平和」シャロームと言う。球体は、欠けのない状態であるだけではなく、すべての方向に均等に力が行き渡っている状態である。どこにあっても同じ力が満ちている状態である。それは完全であり、一体である。シャロームはこの完全性と一体性を表している。

シメオンが腕に受けた言、嬰児イエスは完全性と一体性をシメオンに示したのだ。完全性である「平和のうちに」シメオンを置いた。シメオンは完全なる安寧のうちに置かれた。嬰児イエスを腕に受けたときにこの上ない平和を感じ取ったのである。それは嬰児イエスが生きている「完全なる信頼」である。

嬰児が認識する世界は一なる世界である。自分と世界との間に区別はない。自分が世界であり、世界が自分である。それが嬰児の世界である。これをフレーベルは球体のような状態として表現したのである。それがシャロームの世界である。世界と自分の区別がない状態。それは混沌ではなく、すべてが一にある状態である。数字の一とシャロームは同じことである。すべての根源であり、すべてを包み、すべてを完成する。それが一であり、シャロームである。この完全性を拒否するのが人間の罪である。嬰児イエスは完全性をシメオンに与えた。神の言としてシメオンに与えた。それゆえに、シメオンは解放された自分自身を認めたのである。しかし、シメオンはこのときに解放されたのではない。解放を受け取ったのである。解放は神のうちにあった。それを妨げていた罪の中に捕らわれていたシメオン。彼は解放されていたにも関わらず、解放されていることを認めることができなかった。しかし、嬰児イエスを腕に受けたとき、認めることができたのである。それゆえに、シメオンは讃美するのだ。「今、あなたは解放する、あなたの奴隷を」と。シメオンの生きている社会は何も変わっていない。にも関わらず、シメオンは解放する主人を讃美する。彼の解放は如何なる解放なのか。彼の周りの何が変わったのか。彼が捕らわれていたのは何だったのか。主人の奴隷として神に縛られていたのだろうか。

そうではない。神はシメオンを縛ってはいない。シメオンは神の奴隷として認識したが、それは神が彼を縛っていたという認識ではない。彼は解放されたと認識したとき、自らを神の奴隷として認識したのだ。神は、彼を神の奴隷として解放したのだと。神が解放するのは神の奴隷である。自分の奴隷しか誰も解放できないからである。シメオンは自らの解放を認識したときに、自らを神の奴隷として認識した。解放された奴隷として認識した。罪に縛られていた自分自身を罪の奴隷として認識すると同時に、解放された自分を神の奴隷として認識する。神の奴隷は罪から解放された奴隷である。この認識が来たったのは、シメオンが腕に受けた嬰児イエスからである。シメオンは腕に受けた嬰児として神の言を受けたのだ。神の言が嬰児イエスとしてシメオンの腕に置かれた。腕に受けた神の言がシメオンを完全性の認識へと開いた。開かれた完全性の中で、シメオンは讃美せざるを得ない。彼は解放されたのだから。何ものも彼を縛るものはない。何ものも彼を妨げない。彼は自由であり、主体性を行使できる。しかし、神の奴隷としての主体性であり、自由人であるが奴隷である主体性を生きるのである。自由に神に従う奴隷として生きるのである。それこそが救いなのである。

使徒パウロが言う如く「キリストの奴隷」として罪の奴隷から解放されたとも言える。シメオンの認識が啓かれたとき、彼はすべての人間に啓かれる啓示、異邦人にも啓かれる啓示を歌った。キリストは啓示の光だと。腕に受けた言がそう語ったのだ。シメオンは嬰児イエスから啓示を受けた。腕に受けた言として啓示を受けた。啓示は光照らすが、それはあったものをあるものとして照らすのである。無いものを照らすことはできない。あるものが照らされて、あるという認識を啓く。そうであれば、「あるもの」はあるのだ、我々が認識しなくとも。あるがゆえに、啓かれる。あるがゆえに、見えるようになる。あるがゆえに、隠されている。隠されて「ある」がゆえに、覆いが取り除かれる啓示が生じる。この啓示をシメオンは受け取り、自分に啓かれた認識は誰にでも啓かれる認識であると了解したのだ。

あるものがある。これは当たり前のようで当たり前ではない。あるものを無いもののように生きているのが我々人間なのだから。罪に支配された人間はあるものを無いものとして生きているのだ。それゆえに、無いものを求めて、これが得られれば自分は完全になると思い込む。しかし、神が造られた世界は完全である。それゆえに、無いものはない。あるものがあるだけである。使徒パウロが神に三度祈ったように、我々もこのトゲを取り除いてくださいと祈る。しかし、我々がトゲと認識しているものはトゲではない。弱さがなくなり、強くなれれば、完全になると思う。しかし、弱さは弱さではない。弱さは欠けでもない。弱さは完全性である、目を開かれた者が見るならば。

シメオンが腕に受けた嬰児イエスは、この完全性を生きていた。シメオンは嬰児に完全性を見る目を開かれた。あるものがあるのだと見る目を開かれた。これが救いであり、解放である。我々の罪が曇らせていた目が開かれる。それが解放であり、救いである。従って、シメオンが受けた解放は、自分の罪からの解放であり、神の奴隷としての解放である。シメオンが神の奴隷として解放されたように、我々キリスト者も神に解放された奴隷である。

あなたの目を開いてくださる嬰児イエスが生まれた。あなたを自由にしてくださる嬰児が生まれた。腕を広げ、あなたの腕のくぼみに受けよう、神の言を。神のいのちを。神の愛を。あなたはすでに解放されているのだから。

祈ります。

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