「ベツレヘム」

2016年1月3日(顕現主日礼拝)

マタイによる福音書2章1節~12節

 

「あなた、ベツレヘム、ユダの地。あなたは決して取るに足りない者ではない、ユダの統治者たちの中で。何故なら、あなたから、わたしの民イスラエルを牧する統治者が出てくるであろうから。」とマタイは旧約聖書ミカ書の預言を引用する。しかし、ヘブライ語原典においては「取るに足りない」となっている。マタイは「決して、取るに足りない者ではない」としている。意味としてはマタイの意訳の通りである。しかし、現実には取るに足りない者である。取るに足りないがそうではないのは、全イスラエルの統治者が出てくるからだと言うのである。これがベツレヘムである。

ベツレヘムとは、ヘブライ語でベイト・レヘム。ベイト「家」とレヘム「パン」からなっている名前である。パンの家という名がベツレヘム。パンは食料としての糧であるが、日常摂取する小さなものである。しかし、命を維持するために必要なものである。ベツレヘムは命を維持するパンの家という意味である。それは小さなパンが命を保つために使われるような存在である。小さいが大きい。小さいパンが日々我々人間の命を保つがゆえに、パンは大きなことをしているのである。

イエス・キリストがベツレヘムに生まれたということは、ヨハネによる福音書記者が言うように、イエスは命のパンだということである。イエスは天から降ってきた命のパン。そのお方が生まれるベツレヘムはパンの家。イエスが宿ったところ。小さなイエスが人間の命のために大きなことを行うようになると告げるところ。イスラエルを牧する統治者としてのイエスが出てくるところ。それがベツレヘムという小さな町である。しかし、そこから牧者が出てくるということにおいて大きな町である。

外面的なものが小さく取るに足りないとしても、働きの大きさがある。外面的には小さくとも、働きは大きい。それがベツレヘムについて語ったミカ書の意味である。ミカ書には、イスラエルの牧者である彼の源泉は昔から、永遠の日々からだと言われている。イスラエルの牧者は永遠の日々から出てきている。すべてが造られる前からイスラエルの牧者は出てくるべく定められていた。それがイエス・キリストなのである。

永遠の日々から定められていたのであれば、この世が始まる前から定められていたことになる。そうであれば、神は人間の罪を予見してこの世を創造したのである。人間の罪を予見して、独り子イエスを定めていた。ベツレヘムから出てくる者として定めていた。しかし、何故にベツレヘムからなのであろうか。取るに足りないところから出てこなくとも良いのではないのか。むしろ、皆が認めるところから出てくる方が認められやすい。認められない小さなところから出てくるということは、認める者が認め、認めない者が認めないことが明らかになるためである。それは、イエスが言う「聞く耳のある者は聞け」という言葉と同じである。誰もが認めやすいということは、何も考えずに認めるということである。それでは、真実に自分自身が認めているのではない。皆が認めることを疑うこともない。どうしてなのかと考えることもない。この世では大きなこと、地位があることは、誰もが認めやすい。しかし、小さなことは誰もが認めるものではない。小ささの中にある真実を見抜く者だけが認める。従って、小さく、取るに足りないベツレヘムから出てくるがゆえに、真実を見る者に認められるのである。それがイエスの十字架にも現れている。

イエスの十字架も真実を見るように開かれた者にしか見えない神を語っている。通り過ぎたあとで見える「神の背中」が十字架である。我々の人生においても、あらゆることの意味は通り過ぎたあとで分かるものである。渦中にあるときには、分かり得ない。むしろ、どうしてこのようなことが起こるのかと神の不在を思ってしまう。ところが、神の背中は通り過ぎてから見える。従って、神を見るのは、信仰を与えられてから見るのである。神を見て信じるということはないのだ。神を見て信じたと思っている者は、信仰を与えられて見せられ、信じる者とされたという神の働きを良く考えてみる必要がある。神は信仰を与えることにおいて、我々に見せ、受け入れさせる。それゆえに、我々は自らが確認して信じるのではない。アンセルムスが言うように「理解するために信じる」のである。信じたあと理解するのだ、神の背中を。

東の方からやってきた学者たちがユダヤまでやってきたのはそのような信仰を与えられていたからである。信仰は、未知なるものを見出すことである。未聞のものを聞くことである。慣習に従った思考は思考ではない。無思考である。学者たちは、星が出たとき、無思考ではなく考えた。多くの人たちが見たであろう星を、ただこの三人の学者たちだけが不思議に思い、調べたのだ。考えることを開かれたのは、彼らに与えられた信仰のゆえである。信仰は、神が与えるのだから、神の意志に従うようにさせる。従うということでは、考えないことのように思えるが、今まで聞いたこともないことを受け入れるのは思考が開かれているからである。今まで聞いたこともないことを聞いたこともないと切り捨てるのは思考が閉じられていることである。従って、聞いたことがないことを開くのは神であり、神が与えた信仰が受け入れさせるがゆえである。

そのとき、我々は慣習に従わず、自ら出掛けて行く。学者たちを送り出したヘロデは「あなたがたが見つけた後で、わたしに知らせてくれ」と言うだけである。ヘロデは自分が考えもせず、取り組みもしない。結果だけを求めるが、与えられない。出掛けて行く者だけが与えられる。出掛けて行くことで、東で見た星を見出す。そして、大きな喜びを喜ぶことに至る。これが信仰を与えられた者。学者たちは信仰を与えられ、自らを開かれ、慣習に捕らわれることなく、出かけて行った。信仰を与えられた者は考える者である。考えなければ分からないことも分からない。彼らがヘロデにユダヤ人の王の生まれる場所を尋ねるのは分からないことが分かっているからである。分からないことが分かっている者が信仰者である。自分にできると思っている者は人に聞く謙虚さを持ちえない。謙虚さも信仰の賜物である。

信仰者は、思考する者、探求する者。聞く耳を開かれた者である。ユダヤ人よりも学者たちの方が信仰を受け取っている。神が与える信仰を受け取っている。自分たちが聖書を持ち、見極めていると思うがゆえに、聞くことができないユダヤの祭司長、律法学者たち。彼らは調べることはできても、探求することはできない。信仰が与えられていないからである。探求し、自らが実際に救い主に出会うのは、異邦人の学者たち。出掛けて行くこともしないならば、救い主に出会うことはないのだ。

我々信仰者は出掛けて行く者である。三人の学者たちと同じように出かけて行く者である。遠くまで出かけて行く。長き道のりを歩き続ける。それは小さな日々の積み重ねである。小さな取るに足りないことの積み重ねである。しかし、日々生かされる歩みである。

三人の博士たちは、遠き道を一日一日歩き続けた。彼らは小さな一日を歩み続けた。救い主イエスに出会うために歩み続けた。その果てに、イエスに出会うのだが、出会うまでの道においても、イエスに出会っているのだ。その道を歩み始めたときに、彼らはイエスに出会っている。信仰を与えられて出会っている。神は学者たちを日々希望のうちに導いた。日々信仰を与え、歩ませ続けた。神が学者たちの一日にパンを与えたがゆえに、パンの家にたどり着いた。彼らのいのちにたどり着いた。世界のいのちにたどり着いた。

今日いただく聖餐もいっぺんに我々を造り変えることはない。いただき続けることで、我々のうちにキリストが形作られ、キリストが生きてくださるようになるのだ。キリストの十字架はそのような小さないのちとして我々を導く。嬰児として我々を導く。永遠の命へと。永遠の命のパンを与えて。

今日も感謝して受け、キリストに働いていただこう、わたしのうちにキリストが大きくなるように。

祈ります。

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