「主は救い」

2016年1月1日(主の命名日礼拝(新年礼拝))

ルカによる福音書2章21節~24節

 

「彼を割礼する八日の日々が満たされたとき、彼の名は呼ばれた、イエスと。その名は、天使によって呼ばれたもの、胎における彼の受胎の前に。」と記されている。「胎における彼の受胎前に」と言われているということは、ガブリエルがマリアに現れた時点は「受胎前」だったということである。受胎前に呼ばれた名が「イエス」であった。ということは、マリアの胎に形作られ始める前に呼ばれている名である。この名はイエスを見て呼ばれたのではない。神のうちにあったイエスが呼ばれている。マリアの地上的胎に宿る前に呼ばれているのだから、神のうちにあった名である。神が宿らせる前に、すでに名を呼んでいたのだ。ということは、イエスは胎に宿る前に神に知られていたのであり、神はイエスとして宿らせるべく、マリアを恵んでいたのである。このような名は記号ではなく、存在そのものである。

通常、名は存在を表すために付けられる。しかし、存在する前に呼ばれていた名であれば、存在そのものである。「光あれ」と神が言われたとき、「光があった」ことと同じである。神は「光」を創造する前に「光」を呼んでいる。神のうちにあるイメージとしての「光」がなければ、神は「光あれ」とは言わない。神のうちにあった「光」というイメージ、あるいは概念が「光」という名として呼ばれ、「光」という現実が現れたのである。イエスの名もこれと同じである。

イエスという名は神のうちにあった。イエスという存在のイメージが神のうちにあった。そのイメージを神は「イエス」と呼んだのだ。「イエス」とは「主は救い」という意味である。旧約のヨシュアと同じ名であり、ヘブライ語では「イェホシュア」である。「イェ」は「ヤーウェ」の短縮形、「ホシュア」は「救う」という言葉。「イェホシュア」は「ヤーウェは救う」、あるいは「ヤーウェは救い」という意味である。その名が神のうちにあった「イエス」である。クリスマスに生まれた嬰児が「イエス」と呼ばれた。神のうちにあった名をもって呼ばれた。

「ヤーウェは救う」という名がイエス。イエスは「ヤーウェが救う」ことを生きるのか。「ヤーウェは救い」として生きるのか。「ヤーウェが救う」業を行うメシアとして生きるのか。イエスは十字架においてメシア、キリストとして生きる。しかし、そこに至るまでのイエスは「ヤーウェが救う」ことを生きる。ヤーウェが救うとは、人間は救い得ないということである。

イエスは多くの病人を癒し、救ったのではないのか。そのとき、イエスはヤーウェの救いを与えるメシアとして生きていたのか。十字架において、「メシアなら、自分を救え」と人々から罵られた。しかし、イエスは自分を救わない。十字架において、イエスは「ヤーウェは救い」であることを生きていたのだから。イエスは自らを救えない。しかし、ヤーウェはイエスを救う。ヤーウェは人間を救う。この救いを伝えることが、イエスの癒しであり、奇跡であった。イエスは多くの神的な業において、ヤーウェが救うのだということを伝えたのである。

イエスは自分を救えない。人間を救うのが誰であるかを伝えるために呼ばれたイエスという名。ヤーウェが救いだと呼ばれたイエス。ヤーウェが救いだと神ヤーウェのうちにあって呼ばれたイエス。これが、神ヤーウェが求めていることであり、イエスがそのために呼ばれたことなのである。

では、呼ばれた名は十字架の上で死んでいくときも「ヤーウェは救い」として機能していたのだろうか。機能していたのだ。何故なら、イエスを救い得る存在は誰もいなかったのだから。人間はイエスを救い得なかった。弟子たちも、女たちも、イエスを救い得なかった。如何なる人間もイエスを救うことはできなかった。ということは、イエスは十字架の上で人間から見放された者として生きていたのである。ヤーウェが救いであるがゆえに、人間から見放された。見放されて、神の救いに与った。

十字架において、イエスは「ヤーウェは救い」であることを生きたのである。人間から見放されることは、神の救いに与ることである。人間から見捨てられることは、神が顧みることである。人間から殺されることは、神に生かされることである。人間の反対の相に、イエスは生きている。

飼い葉桶に寝かされたイエスは、ナザレに戻った両親によって、もっとも貧しい者の献げ物と共に神に差し出された。最も貧しい者として聖別された。最も貧しい者たちの救いとなるために。

「ヤーウェは救い」という名は、最も貧しい者たちの救いである。最も貧しい者たちは救いを得ることができないと思われている。少ない献げ物でヤーウェの顧慮を受けることも少ないと思われている。そのような者として生きざるを得ない人たちを救うのが「ヤーウェが救う」ということである。自らを救い得ない人間を救うのが「ヤーウェは救い」という名の意味である。

もちろん、ヤーウェは献げ物の多寡によって救いを増やしたり、減らしたりするお方ではない。救いは救いである。救いの大小はない。救いの多寡はない。それにも関わらず、人間はそのように考えてしまうものである。イエスは、人間の側で考えるヤーウェの救いに対して、「ヤーウェが救う」のであることを証する。十字架において、証する。それが、イエスという名の意味なのだ。

イエスという名には必然的に十字架がつきまとっている。貧しさがつきまとっている。弱さがつきまとっている。小ささがつきまとっている。貧しく、弱く、小さい者が救われるために、イエスと呼ばれた嬰児。イエスは、貧しく生きる。イエスは弱さを生きる。イエスは小さい者として生きる。貧しい者たちと共に、弱い者たちと共に、小さい者たちと共に。イエスはご自身の生を通して、「ヤーウェは救い」なのだと生きる。人間に救い得ない人間を救う神ヤーウェを示す。

救い難い人間であることを認めたとき、ヤーウェは救いとして立っている、使徒パウロが語ったように。神ヤーウェを褒め称える存在は、自らが救われ難い人間であることを認めた存在。そのとき、理性では認識できない神を見て、褒め称える。イエスの十字架にその神が現れている。理性では、貧しく、弱く、小さい者に救いの力はないと思える。十字架に死んだイエスに救いの力はないと思える。しかし、弱さの中で、貧しさの中で、小ささの中で、自らを認めた者には、十字架は救いである。十字架に神を見る。十字架を神の義と認める。小さき者を救い給う神の憐れみを十字架に見る。

あなたの貧しさ、弱さ、小ささが如何に深くとも、ヤーウェが救えないものは何一つない。ヤーウェが救いであるがゆえに、我々は如何に小さくとも卑下することはない。如何に弱くとも雄々しく生きる。如何に貧しくとも生きていける。「ヤーウェは救い」という名で呼ばれる嬰児が、我らのために生まれ、我らのために死んでくださるのだから。我々人間の罪ゆえにどうにもならない状態を克服するのは、ヤーウェのみ。罪に支配されている我々を解放するのは、ヤーウェのみ。ヤーウェのみが我々の救い。イエスは、ヤーウェの救いが確かであることを我々に告げる。十字架の上から、死の淵から、見捨てられたところから、我々に告げる。

十字架のキリストの救いは、我々を神のものとして聖別する救い。我々が「ヤーウェが救う」救いを認識するために、自らを十字架に委ね給う救い。十字架の前にひれ伏す信仰を与えられて、我々は罪から解放され、自由に神に従う。神のものとして従う。神の子とされて生きる。ヤーウェは救いなのだと生きる。

新しい年、我々が生きる道は困難、苦難、辛酸が待っているであろう。しかし、ヤーウェはその一つ一つから我々を救い給うお方。このお方に信頼して生きて行こう。「わたしは主、それを創造する」と言われるヤーウェに信頼するならば、我々は神の前に義しく生きる者として、日々創造のうちに生かされて行く。新しい年、「ヤーウェは救い」を生きて行く、我々でありますように、終わりの日の完成を望み見ながら。

祈ります。

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