「天の開け」

2016年1月10日(主の洗礼日礼拝)

ルカによる福音書3章15節~22節

 

「彼は民を福音化した。」と洗礼者ヨハネについて語られている。ヨハネが福音化した内容は「わたしより力ある方が来る」ということである。そのお方がイエスである。ヨハネの福音はイエスについての福音であり、イエスが来ることを告げ知らせることであった。このイエスが福音そのものであることがイエスの洗礼において明確化されている。それが「鳩のような視覚的身体性において聖なる霊が彼イエスの上に降った。」ということと「天からの声が生じた。」ということである。視覚と聴覚が開かれることによって、天の開けが身体的なものとして生じている。

身体的であるということは単に見えるとか聞こえるということではなく、全体性であり、綜合性である。イエスにおいて、全体的に、綜合的に、身体的なものとしての福音が生じている。イエスというお方の存在そのものが福音であり、イエスというお方として福音が来る。「わたしよりも強い方」というヨハネの言葉に現れている福音である。

しかし、「強い」という表現は地上的力の表現であり、人間的に比較できる力の表現である。ヨハネが語っている「より強い」という事柄は、ヨハネ自身との比較において語られていることであり、絶対的強さとしては認識されていない。絶対的強さは、人間が表現するときには、比較的な強さとしか表現できないのである。人間はあくまで自分との比較において思考してしまうからである。ヨハネが語っている「水に沈める」洗礼と、「聖霊と火のうちで沈める」洗礼とは質的に違うのである。しかし、人間的に認識する場合、どうしても比較においてしか表現できない。それゆえに、ヨハネが語っている内容は質的な違いであり、自分とは異質な存在であるイエスを語っていることを忘れてはならない。新共同訳が「ほかにもさまざまな勧めをして」と訳している言葉は、「多くの異質なことを励まして」と訳せる言葉である。イエスに関する事柄は異質な事柄である。地上的「水」と天上的「聖霊と火」はまったく異なっているのだから。

ところが、この異質なお方の上に、鳩のような身体性をもった視覚において聖霊が降る。天からの声が生じる。神の意志が地上的視覚と聴覚において知覚できるものとなる。それが「天の開け」なのである。「天の開け」は、イエスに対してだけではなく、聖霊と火のうちでイエスが沈める存在にも生じる。それゆえに、「天の開け」はイエスにおいてすべての人間に開けるものとなる神の意志を意味している。すべての人間が神の意志を知ることが可能となる。神の意志を知らせる聖霊と神の裁きの火の中で沈められるからである。

裁きは火において生じている。洗礼を受けるということは、裁きを受けているということである。裁きを受けることを承認していることである。裁かれるべき自分自身を認めているがゆえに、洗礼を受けるのである。洗礼を受けないということは、裁かれるべき自分を認めていないことである。それゆえに、わたしを裁く神の意志を認めていない。そして、神の意志に服していない。神の前にすべてをさらしていない。従って、神を拒否している。

ヨハネの洗礼は、人間が救われるために善きことをなすことを教える。それは地上的認識である。洗礼を受けることが、わたしが良き人間になることだとの認識を与える。しかし、イエスが沈める洗礼は、地上的なものを越えた異質な洗礼である。わたしは善き人間にはなれないことを承認し、神の前にひれ伏す。そのとき、聖霊と火のうちで沈められることが生じる。わたしは、神の意志に服し、神の裁きに服する。こうして、わたしのすべてが裁かれることを受け入れるとき、わたしは神の前で受け入れられているのである。

このような洗礼はヨハネの洗礼とは質的に異なっている異質な洗礼である。異質であるがゆえに、ヨハネによっては来たらない。ヨハネより強き方、イエスによって来る。イエスご自身が人間と同じように水に沈められることを通して開かれた、天から来る。これが今日、イエスの上に身体性として生じた聖霊の降下と父の声としての「天の開け」である。

父なる神は、イエスが人間と同じように洗礼を受け祈ることを良しとされた。「あなたはわたしの息子、愛する者。あなたにおいて、わたしは満足する。」という声が生じることにおいて、イエスの人間としての受洗、人間としての謙虚さを神が受け入れている。このイエスに従うことにおいて、我々の洗礼は神に受け入れられることなのである。

我々が神の意志を受け入れ、神の意志の前にひれ伏し、自らの罪を認めるとき、神は裁きを行うが受け入れ給う。裁きに身を委ねることにおいて、我々は受け入れられている。何故なら、裁くお方を承認し、裁くお方にすべてを委ねていることによって、我々は裁くお方のうちで生きているからである。それゆえに、裁くお方のうちにあるわたしは裁かれているが裁かれないのである。これが福音であり、イエスがこう言われたことである。「自分の命を救おうとする者はそれを滅ぼし、わたしのゆえに、自分の命を滅ぼす者はそれを救う。」と。このような言は、地上的な思考では理解不能な言である。地上的な思考とは異質な思考である。逆説というようなものでもない。逆説は地上的に見て逆説だと思えることである。しかし、イエスの言は地上的なことを越えているのだから、異質なのである。異質であるがゆえに、逆説でもない。まったく異なった言説である。イエスご自身が異質なお方なのだから。

異質なお方ではあるが、身体性をもった視覚と聴覚によって認識することが可能なるお方である。地上的身体性において現れたお方である。しかし、地上的身体性で捉えようとすると、捉え損ねるお方である。異質なお方は、地上的には異質なのだから、誰も認めることができない。にも関わらず、認めることができないのではなく、認めないという人間の側の主体に左右されているかのように思えるのである。これが、イエスの異質性を捉え損ねる人間の愚かさである。

我々は、異質なお方を異質なお方として認めなければならない。地上的な事柄を通して現れた天的なお方を認めなければならない。イエスの洗礼は、地上的な事柄として現れているが、天的な出来事である。このお方を認めるのは、神の前にひれ伏す信仰のみである。信仰によってのみ、イエスを父なる神の息子として認めることが可能となる。信仰によってのみ、我々自身を神の裁きに委ねることが可能となる。信仰によってのみ、裁きが福音となる。こうして、イエスの言が我々の上に生じる。イエスが地上的身体性をもって沈められた洗礼によって開かれた天が、我々を受け入れる。「天の開け」が我々の上に常に生成するものとなる。

あなたの上に天は開かれている。あなたのすべてを受け入れるために、天は開かれている。あなたの罪を裁くために、天は開かれている。「天の開け」はあなたを受け入れ給う神を伝える。この神が、イエスの十字架において示されている神である。イエスの十字架は、裁く神であり、受け入れる神である。罪を憎む神であり、あなたを愛する神である。十字架において処断された罪を引き受け給うイエスによって、神はあなたを「わたしの子」と呼び給う。あなたは「わたしの父」と応える心を起こされる。神はあなたを愛する子として受け入れ、生かしてくださる。地上的な事柄を越えた信仰において、あなたを神の子として受け入れ、生かし給う。

イエスにおいて、満足し給う神が、あなたを喜ぶ。イエスにおいて、愛する者とされたあなたが神を満足させる者となる。イエスにおいて、あなたは神の子として形作られる。愛する者が愛する者を作り出す。イエスの福音は、洗礼者ヨハネが語るように、異質な高いところにあなたを導く。神の御前にひれ伏す信仰によって、あなたは高く上げられ、神の子イエスに似た者とされて行く。この恵みが今日開かれた。「天の開け」が今日始まった。イエスの洗礼を通して始まった「天の開け」があなたを永遠へと導いていく。イエスに従って、歩んで行こう、開かれた天の下で。

祈ります。

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