「神の意志の注ぎ」

2016年1月17日(顕現節第3主日)

ルカによる福音書4章16節~32節

 

「そして、巻物を広げて、彼は見つけた、このように書かれている場所を。」と言われている。イエスは巻物の中から見つけた、イザヤが語る主ヤーウェの力を。「主の霊、わたしの上に。彼がわたしに油注いだから。」とイザヤはヤーウェの霊に包まれている自分自身を語る。ヤーウェが油を注ぎ、イザヤを職務に就けた。良き知らせを伝えるために。自由を宣言するために。ヤーウェの油注ぎを受けたのだと認識したイザヤの言を見つけたイエス。イエスはイザヤと同じ認識に開かれた。神であるヤーウェの霊がわたしの上にあると認識した。神の意志を伝える霊がわたしを包んでいると認識した。

マーシャーというヘブライ語は、油を注ぐことを意味している。油注ぎという行為は、任職の行為である。職務に任じる際に、油が注がれる。王、祭司は油注がれて、職務に就く。マーシャーから、マーシアハ「油注がれた者」、メシアの思想が生まれた。ヘブライ語でメシア、マーシアハは、ギリシア語でクリストス。キリストはメシアのギリシア語訳である。イエスは、自らが油注がれたのだと認識した。神の意志が自らを包み、神の意志が注がれたと認識した。それゆえに、イエスは福音を宣教する職務を受けたと信じ、宣教に出かけたのである。

しかし、イエスの宣教においても、預言者たちと同様に拒否されることは当然であった。「ヨセフの息子ではないのか、この人は」と人々は語り、イエスを拒否した。この拒否は、イエスの口から溢れ出してくる恵みの言への驚きから生じている。何ゆえに、恵みの言がイエスの口から出てくることをいぶかるのか。恵みの言を拒否するのはどうしてなのか。イエスが神の意志に包まれていることを拒否することで、自分たちが守られるからである。それは、イエスの力、イエスの言への妬みである。妬みが拒否を生み、拒否が殺害を生む。真実を語るイエスを崖から落とそうとすることが起こる。その人々の真ん中を通り抜けて、イエスは出て行ったのである。

真ん中を通り抜けるイエスは、神の意志にすべてを委ねている。神の意志がイエスを崖から落とすのであれば、落とされることを受け入れる心で、イエスは人々の真ん中を通る。こうして、神の意志がイエスを守る。神の意志を注がれているがゆえに、イエスはまっすぐに進む。神の意志の注ぎがイエスを素直にしている。ありのままに生かしている。神の意志が注がれているがゆえに、イエスは何も恐れることなく、まっすぐに進み行く。これが油注がれた者の在り方である。

ヤーウェに職務を与えられたと認識した者は拒否されてもまっすぐである。人間に認められるために宣教しているわけではない。人間におもねるために宣教しているのではない。ただ、神の意志を伝えるために宣教しているのだ。人間に気に入られなくとも宣教する。人間から殺されようとも宣教する。神ヤーウェが職務を与え給うたと信じているから。人間から与えられた職務ではない。神が与え給うた職務である。人間が神の意志に従うようにと語るために与えられた職務である。人間の救いのために語る職務である。人間を恐れていてはこの職務を担うことはできない。それゆえに、イエスはただまっすぐに進むのだ。まっすぐに進むイエスは、究極的に十字架を目指している。神の権威のうちで、人間を恐れることなく、十字架を目指しているイエス。

このお方がまっすぐに進むのは、この日与えられた神の意志の注ぎゆえである。イエスは、神の意志を注がれていると認識したのだ。イザヤの書が広げられ、イザヤが神に召されたことを認識する言葉を発見したイエス。イザヤが職務を与えられた認識をイエスは共有した。それゆえに、イエスは預言者たちと同じように、神の意志を語る職務を担う。人間を恐れることなく、ただ神の意志の中で生きる。それゆえに、十字架は避け得ないものとなる。十字架を避けることはできない。避けようとすれば、職務を遂行することはできないのだから。語るべき言葉を語らず、逃げていては神の意志は貫徹されない。もちろん、イエスが語らなかったとしても、神は他の人間に職務を委ねるであろう。そして、神の意志は貫徹して行く、たとえイエスが拒否しても。イエスが人間を恐れたとしても、神の意志は別の人間によって貫徹されて行く。如何なることがあろうとも貫徹される神の意志を注がれているイエス。それゆえに、人間を恐れることはない。たとえ十字架に架けられようとも。

イエスは神の意志を注がれたとの認識を開かれた。洗礼の際には、神の子の自覚を開かれた。ここナザレにおいては、神の意志の注ぎを開かれた。そして、拒否されることを通しても、神の意志の貫徹を認識したのだ。神はイエスを守り給う。崖から落とされるやも知れぬ危機においても、神がイエスを守り給う。それゆえに、真ん中をまっすぐに進み行くことができる。いや、神に信頼するがゆえに、まっすぐに進み行くのだ。ただそれだけがイエスが生きる道である。

神の意志の注ぎを自覚することによって、神の意志の貫徹に相応しく生きる道をイエスは示されたのだ。その道が十字架に向かう道であろうとも、イエスは進み行くことができる。神の意志が注がれているのだから。神の霊、聖なる霊がイエスの上にあるのだから。進み行かねばならない。イエスの上にある主の霊、神ヤーウェの霊がイエスを押し出す。崖の上で押しだす。人間たちの真ん中へ。人間たちの真ん中を通る道を進ませられるイエス。

イエスは人間たちの真ん中を通る。それが十字架である。人間たちの真ん中は罪のただ中。罪に取り囲まれ、罪に押しつぶされそうになる中をイエスは通り抜けて行く。罪のただ中を通り抜けるイエス。このお方は罪の中に入るのだ。妬みと争いのただ中に入る。十字架は妬みと争いのただ中に立っている。崖の淵に立っている。まっすぐに進み行けば、十字架に架けられるであろう。今は、通り抜けたかに思えるが、いずれ架けられるのだ。通り抜けたのだから、十字架も通り抜けるはず。それは十字架の真ん中を通り抜けること。イエスは十字架に真正面から向かい、十字架に架かり、死ぬことを通して、十字架を通り抜けるのだ。十字架を通り抜けることは、十字架を避けることではない。十字架を担うことである。人間の罪のただ中に入ることである。人間の罪を担うことである。人間の罪に押しつぶされるようなただ中に入ること。それがイエスの十字架である。十字架を通して、イエスは通り抜ける。命へと通り抜ける。神の意志の注ぎがイエスを通り抜けさせる。神の意志の注ぎがイエスを押し出す。人間の罪のただ中へと。人間の罪の真ん中を通り抜けるために、イエスは神の意志を注がれたのだ。神の意志の注ぎがイエスを動かす力。イエスを包む力。神の意志が神の権威である。

神の意志を与えられることで、権威を与えられているイエス。権威のうちにあるイエスの言。拒否する者を拒否し、受け入れる者を受け入れる権威。それは、ただ受け入れる権威である。拒否するものを受け入れるということは、拒否することを受け入れることである。従って、拒否する者の拒否をありのままに受け入れる。拒否を受け入れながら、拒否として生きている。受け入れも同じである。受け入れを受け入れて、受け入れとして生きている。拒否する者は自らを拒否している。受け入れる者は自らを受け入れている。従って、自分自身をありのままに受け入れ、愛する者は神に愛されていることを生きている者である。

イエスは、神に愛されていることを生きている。十字架の上であろうとも生きている。それゆえに、十字架の上で愛されているイエスは、神の意志の中で生きている。神はイエスを愛し、ご意志を実現するためにイエスを生かし給う。

我々人間が如何に罪深くとも、イエスが生きている神の意志の中で、我々は受け入れられ、愛され、癒され、救われるのである。今日、共にいただく聖餐において、罪にまみれたあなたが神に受け入れられる。如何に罪深くとも愛し給うあなたを生かしたいと願う神の意志。感謝して受け、神に従って生きて行こう、神の愛の中を、イエスと共に。

祈ります。

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