「深きに降る言」

2016年1月24日(顕現節第4主日)

ルカによる福音書5章1節~11節

 

「語ることが鎮まったとき、彼はシモンに言った。深みへと漕ぎ出して、あなたがたの網を漁へと降ろしなさい。」と語られている。イエスは言う、「深みへと漕ぎ出せ」と。深みへと網を降ろせと。その始まりは、語りの終わり、語りの鎮まり、語りから沈黙への移行である。沈黙に至ったとき、イエスは深き所へとシモンに行くように命じる。語りの終わりが新たなことの始まり。深みから始まる未経験の出来事。それが今日シモンが経験する深みである。

深みにおいて、始まりがある。シモンの新たな始まりがある。シモンだけではなく、一緒にいたゼベダイの子らも同じである。彼らは、イエスの言の上に、網を降ろす。彼らが経験してきたこととは違うことが起こる。経験上、どうせ獲れないと思えるにも関わらず、彼らはイエスの言の上に網を降ろす。イエスの言ゆえに網を降ろす。それは、深みに降ろすこと。イエスの言が降りゆく深みに自らを投げ入れること。彼らは、経験上起こり得ないと思える大漁を経験する。この経験が起こったのは、彼らがイエスの言によって動かされたからである。どうせ、獲れないと思っても、あえて深みへと網を降ろした弟子たち。それゆえに、経験したことのない出来事を経験した。彼らがイエスを信じたからこうなったというのではない。彼らはイエスの命令に素人の姿を見た。しかし、イエスの言はそのような外面的素人性を越えて、従おうと思わせる言であった。

我々人間は、どこまでも自分の経験や他人の経験に縛られている。こうしたら、こうなると思い込んでいる。そうなったら、どうしたら良いのかと考える。愚かな問いを発し続け、何もできなくなってしまうことも起こる。生きることは危険を冒すことでもある。危険を回避することばかりを考えているならば、人間は新しいことを始めることはできない。新しいことには危険を引き受ける覚悟も必要なのである。それができない人はできない。危険を冒せない人は危険を回避して自分が守られたと思う。何事もなく生きて行くことで良いではないかと考える。そうである。冒険せずとも平穏無事に生きていければ、何も危険を冒して死んでしまわなくても良いのである。死んで花実が咲くものか。そう思う者はそれで良いのであろう。イエスが言う「聞く耳のある者が聞く」だけなのだから。聞けない人にいくら語っても聞かないのだから。

シモンはイエスが命じたことに従う必要はなかった。それでも従ったからこそ、大漁を経験した。しかし、だから従えるということではない。だから、従いましょうということでもない。大漁の経験は付属物でしかない。未経験の事柄に身を投げ出したあと付いて来るもの。単なる付属物である。むしろ、イエスの言の上に網を降ろすという従順の行為自体が重要なのである。それはただ従うことである。しかし、イエスの言が従うようにさせる言だったからである。そして、イエスの言を聞く耳を開かれたシモンだったからである。イエスの言が、シモンの深みに降った。イエスは深きに降る言を語る。深みを持つ者にしか聞くことのできない言を語ったのだ。この深きに降る言は、どこから出てくるのだろうか。

イエスの語りの終わりから、語りの鎮まりから、語りの沈黙から出てきた。語ることが意味を持っているのではない。語りの沈黙が神の力の始まりなのである。この沈黙を聞くことから神の力が働くのである。従って、語りの後に来る沈黙こそがすべての始まりであり、すべての深みである。深きに降る言は、この深みである沈黙から発せられるのだ。

我々は語る中に何かがあると思う。意味が満ちている言葉を語りたいと思う。誰かを励ます言葉を語りたいと思う。力ある言葉を語ることができれば、自分の力を誇ることができると思う。それゆえに、我々は語ることをことさらに重要視する。語りこそ力であると。ところが沈黙できない人間の言葉は如何に力ある言葉のようであろうとも、所詮人間の言葉である。それで終わる言葉である。しかし、イエスの言は沈黙から始まる言葉である。語りの終わり、沈黙という深きに降る言である。深きに降る言に開かれた者シモンは網を降ろす。自らの深みに、自らの罪の深みに。それゆえに、大漁の経験の後、シモンはイエスに言うのだ。「わたしから出て行ってください。何故なら、わたしは罪深き男であるから。」と。イエスの言がシモンの深きところに降ったのだ。その言は、単なる命令としての言ではない。シモンの深き心の奥に降った言。シモンは自らの罪を自覚した。イエスを信じられなかったということではない。シモン自身の存在の深みに罪があることをシモンが知ったということである。シモンにとって、イエスは深きに降る言として目の前に立っているのだ。それゆえに、イエスはシモンたちを召すことができるのである。彼らの心の深みにイエスが降られたからである。彼らの心の深みがイエスの言に動かされているからである。

我々はこのシモンのようにすぐにイエスに従うということがどのようにして可能なのかと不思議に思うものである。それは可能な人に可能なのである。不可能な人には不可能である。不可能な人から見れば不可思議なシモンということになる。何の益もないのに、馬鹿みたいだと思う。だから、宗教はアヘンだと言われるのだと思う。思慮深い人間は良く考えるのだから、こんな危険なことはしない。十分に考えてから行動する。だから、シモンたちは愚かなのだ。思慮深い人間はこのようなことはしないのだと考える。果たして、そうなのだろうか。

思慮深く、危険を回避して、何も言わない人間。何も始めない人間。そのような人間が思慮深い人間だと思っている。思慮深い人間だと思っている者が、自らの危険を回避するために、ガス室を容認する。実は思慮深いのではなく、思慮がない、無思考なのだとハンナ・アーレントは分析した。マルティン・ルターも異端者である。誰も言わなかったことを言ったのだ。それは自らの内なる深きに降る言を聞いたからである。イエスの言を聞いたからである。イエスの言は深きに降る言である。我々の深きところに降り、我々を根底から揺り動かす言葉である。我々に「それで良いのか。」と問う言である。あなたの危険を回避することが正しいことなのかと問う言である。シモンはそのような言を聞いたのだ。「深みに漕ぎ出して、網を降ろせ、漁へと」とイエスが語る言は、シモンを動かした。それが愚かに思えても、動かざるを得ない言だった。それが未経験で危険だと思えても、従わざるを得ない言だった。シモンの心の深みに降った言だった。深きに降る言は、シモンを動かし、今まで経験したことのない出来事を経験させた。そして、そのように生きる道を開いてくださった。「人間を獲る者となる」と。

何事にも道が開かれる。どのような状況にも道は開かれる。人々の拒否があろうとも道は開かれる。危険であろうとも、いや危険を引き受ける存在が起こされるゆえに、道は開かれる。新たなことが始まる。神は新たなことを始め給う。深きに降る言によって、神は始め給うのだ。新しいこと、新しい世界、新しい命の躍動を。愚かなことに思えることをあえてする人がいる。あえて危険を冒す人がいる。あえて、神の言に身を投げる人がいる。イエスはそのようなお方。あえて、十字架を引き受け給うたのだから。このお方が語る言は、我々人間の罪の深みを知っている言。我々人間の深きところに降る言。沈黙の深みに降る言。この言が、我々を救う言。新たなる世界を開き給う言。

十字架という深みから始まる世界は、イエスという深きに降る言によって始められたのだ。イエスは神の深みに身を投げおろしたお方。十字架の深みに身を投げたお方。十字架のうちに現れ給う神の後ろを指し示すお方。隠れ給う神の現れを指し示すお方イエス。我々が如何なるとき、如何なるところにあろうとも、このお方が共におられる限り、新たな世界は開かれるのだ。相応しい道が開かれるのだ。あなたの道が開かれるのだ。恐れることはない。イエスはあなたと共におられる。イエスと共に歩みだそう、神が開き給う道を。

祈ります。

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