「喜び躍るいのち」

2016年1月31日(顕現節第5主日)

ルカによる福音書6章17節~26節

 

「喜べ、その日において、そして躍り上がれ。何故なら、あなたがたの報いは多いから、天において。」とイエスは言う。「その日」とは、彼らが憎まれる日、分けられる日、罵られる日、その名が追い出される日、悪しきもののように。その日において、喜べと言う。その日において、躍り上がれと言う。喜び躍るようにと勧めるイエス。誰もが喜べない日、躍り上がらない日に、喜び躍れと言う。これは、おかしな言。不可思議な言。肯けない言。通常の思考では受け入れることができない言である。それゆえに、イエスは勧める。「喜べ、躍り上がれ」と。

日常を越えているがゆえに、イエスは勧めるのだ。誰もが無理なくできることであれば、誰もが普通に行うことであれば、イエスが勧める必要はない。イエスが勧めなければ、誰も行わないがゆえに、勧めるのだ。どうして、勧めるのか。それがいのちの真実だからである。誰もそのように生きないが、真実ないのちはそのように生きるのだと、イエスは勧めるのである。この世の在り方とは正反対。この世の価値観とは正反対。この世の認識とは逆転している。しかし、実は逆転ではなく、正常なのである。この世が逆転しているのだから。この世がおかしいのだから。

この世はイエスが語り、勧める姿とは正反対である。この世はそれゆえにおかしい。それゆえに、この世が間違っている。それゆえに、この世は悪に満ちている。この世は争いに満ちている。これが問題なのに、我々はこの世の悪と争いの在り方を正当であると思い、イエスの勧めることをおかしいと思う。おかしいのはこの世なのに、イエスがおかしいのだと思うのだ。これが、この世に支配されている愚かさである。罪に支配されているこの世の在り方である。

この世はおかしいのだから、イエスが言うことが分かろうはずはない。イエスの言うことがおかしいと思うのだから。それゆえに、イエスの言は変人の言葉に思える。変わった人だと思う。どうして、このように受け取ることができようかと思う。イエスはおかしいのだから、十字架に架けられたのだと思う。イエスの十字架は変人の死を告げているだけであり、変人だけが十字架に自分と同じ姿を見るだけなのだと思う。

それでも、我々人間は、イエスの十字架に何か真実なるものを感じる。自分には分からないが、真実があると感じる。イエスのように死にたくはないが、イエスは真実であると思える。変人のようではあるが、本当に神の子であると思える。イエスのような生き方はイエスにしかできないが、わたしにはできないが、でもイエスのように生きるのは素晴らしいと思う。この思いはどこから来るのだろうか。どこから生じるのだろうか。何がそう思わせるのだろうか。

イエスのように生きることは確かに素晴らしいだろう。しかし、わたしのお金は大事。わたしの家族も大事。わたしのいのちも大事。すべてを捨てることはできない。イエスに従いたいけれど、捨てることはできない。イエスの真実を生きてみたいけれど、この世の価値を保持しながら、生きてみたい。この世もイエスもどちらも持っていたい。こうして、相反するものを求めて、結果的にイエスを捨てる。どちらも持つことはできない。どちらかである。どちらかしかない。イエスが真実であるならば、イエスしかない。この世が真実であるならば、この世しかない。我々はどちらも持つことはできないのだ。富も神も持つことはできない。どちらかのみである。

我々人間は、イエスのように生きることができないのではない。イエスのように生きたくないのだ。イエスのように損したくないのだ。イエスのように憎まれたくないのだ。罵られたくないのだ。分けられたくないし、排除されたくない。イエスのようには生きたくないがゆえに、我々はイエスを十字架に架けたのだ。イエスが言うように生きることは辛いので、イエスを十字架に架けたのだ。イエスのように生きることを避けるがゆえに、イエスを十字架に架けた。それが我々人間の真実である。

そのような人間が、イエスの言に従うはずがない。イエスの言に従って、「喜び躍る」はずがない。そうである。我々はイエスの言を聞きはしない。耳を開かれなければ、聞きはしない。イエスが、わたしの代わりに死んでくれたのだから、わたしはこのままで大丈夫なのだと思いたい。イエスに従わなくても良いのだと思いたい。イエスの言に従って、「喜び躍る」ことができないけれど、それでも救われているのだと思いたい。それが、我々人間の真実である。イエスを十字架に架けた我々人間の真実である。

この人間の真実から、イエスの真実に移行することは我々からは生じない。我々はイエスのように生きることはないのだから。我々はイエスの言に従うことはないのだから。それゆえに、イエスの言を我々は聞きたくない。聞きたくない言であるがゆえに、イエスはあえて勧める。あえて語る。「喜び躍れ」と。

我々が聞かないとしても、イエスは語っている。いつか耳が開かれるやも知れないがゆえに。聞かないとしても語るイエス。ここにこそ、真実がある。聞かないとしても、聞くときが来ると語る。イエスの言に力があるがゆえに、イエスは語る。イエスから力が出ていたと記されているように、イエスから神の可能とする力デュナミスが出ていた。その力は、今すぐに結果が見えるものではない。十字架もすぐに結果が現れるものではない。しかし、神は十字架を起こし給うた。イエスは語り給う。すぐに結果が出なくとも、すぐに耳を開かれることがなくとも、すぐに従わないとしても。イエスは語り給う、我々人間が神の可能とする力によって、開かれる日を望み見て。イエスは、十字架を引き受け給う、我々人間が造り変えられる日を望み見て。その日には、この世の価値によって反対されるであろう。その日には、我々は罵られるであろう。その日には、我々は分けられるであろう。その日には、我々は排除されるであろう。このような人間がいてもらっては困るのだと。このような人間が現れては困るのだと。この世の悪が、この世の罪が、我々を排除するであろう。そのような日が来ることを信じて、イエスは語るのだ。イエスは勧めるのだ。イエスの力は出て行くのだ。ご自身の十字架へとイエスは出て行く。

イエスの十字架は、イエスが語った通りである。罵られ、排除され、殺されて、喜び躍るイエスが生きている、十字架の上で。我々には愚かに見えるイエスが生きている。我々を造り変えるイエスが生きている。それゆえに、十字架は我々の罪を引き受け、我々を「喜び躍る」者に変えて行く力である。我々が罵られ、憎まれ、排除されても、「喜び躍る」いのちに生かす力である。この力こそ、神のデュナミス。神の可能とする力。神がイエスを通して働き給う力である。

我々がこの力に与るために、イエスは今日語り給う、「喜び躍れ」と。わたしは喜び躍っていると。あの十字架の上で、喜んでいると。躍り上がっていると。わたしは神のいのちを喜び生きていると。イエスは語っているのだ。十字架のイエスは語っているのだ。十字架の言が語っているのだ。

真実は、この世の価値とは反対のところにある。何故なら、この世が捨てたイエスが真実に生きているからである。イエスが真実であるがゆえに、我々は信じるのだ。十字架を信じるのだ。十字架が死ではなく、いのちであると信じるのだ。十字架が喜び躍るいのちであると信じるのだ。このいのちに与ることが可能なのだと信じるのだ。我々キリスト者は、イエスの言に促され、イエスの言に力を得て、イエスに従って行く。この世の価値を越えて。普通ではない生へと入っていく。通常では価値なきものと捨て去られる生へと入っていく。

キリストの体と血は、この命を我々に与える。この命へと向けて、我々を造り変える。この命が我々のうちに生きるようにと与えられるキリストの体と血。感謝していただこう。キリストの言がわたしを可能とする力のうちに生かしてくださるのだから。喜び躍るようにと。

祈ります。

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