「選びの現れ」

2016年2月7日(主の変容主日)

ルカによる福音書9章28節~36節

 

「これはわたしの息子、選ばれし者。彼のことを聞け。」と雲からの声が生じた。弟子たちに聞こえた雲からの声。これは神の声である。神が弟子たちに語る声。この声はどうして生じたのか。弟子たちが、ペトロが、仮小屋、天幕を三つ作ると叫んだからであろうか。「彼のことを聞く」とはどういうことなのだろうか。

イエスの顔の外観が変わったのは、祈っていたとき。祈りを通して、イエスは神の選びを受けていた。選びの受け取りが顔の外観の変化として現れた。山上の変容という出来事が語っているのは、選びの現れである。この選びは、如何にして生じたのか。イエスが山に登ることにおいてだろうか。山に登るということは、これから降るということである。永遠に山に留まることはない。神が山に降るとしても、山において現れるとしても、永遠に山に神がおられるわけではない。同じように、山に登ったイエスは永遠に山にいるわけではないのである。降ることへと移行するために、山に登ったのである。イエスの降る生は、十字架に行き着く。イエスは十字架に行き着くために山に登った。しかも、三人の弟子たちを連れて。

三人の弟子たちが選ばれたように、イエスも登ることにおいて選びを受け取った。受け取った選びが現れ、弟子たちに見えた。見えた選びを留めることはできないとの戒めが雲からの声として聞こえてきた。あなたがたは聞くのだ、彼のことをと。聞くためには、イエスと共に降らなければならない。これが困難なのである。

我々は一度登ったならば、降りたくない。せっかく良い地位について、良い思いをしているのだから、降りたくない。それを留めたいのだ。永遠に留まってほしいと願う。このような思いがペトロの思いである。自分たちだけがここにいることができるならば、他の人たちはどうでも良いのだ。他の人たちが救われようが、滅びようが、それは自分には関わりのないことだとでも思ったのであろう。自分たちが選ばれているのだという自負の思いが仮小屋設置提案に現れている。

ところが、雲からの声は言う。この者が選ばれし者であると。この者のことをあなたがたは聞くのだと。耳を傾け、聞きなさいと。この者が選ばれているのは、祈りにおいて受け取った選びであり、これから降っていくことを選びとして受け取ったのだと。それは最終的に十字架に行き着く選びである。死を意味する「最期」ではなく、最終楽章を意味する「終曲」が満たされようとしているのだ。それはエクソドスというギリシア語で「出て行くこと」、「出立」でもある。イエスは、モーセとエリヤと共にこの終曲、出立について語っていたのだ。十字架は終曲である。イエスの地上の出来事の完成である。そこから新たに出立するエクソドスである。そのためには降るのだ。降らなければならないことを選びとして受けたイエスである。

降ることは、落ちて行くことのように思える。落ちて、誰からも顧みられず、独りさびしく終わりを迎えることのように思える。しかし、降ることは登ることと共にあるのである。それゆえに、登ることにおいて、イエスは選びを受け取ったのである。ここからは降っていくのだと受け取ったのである。十字架という終曲に向かって降っていくイエス。このお方のことを聞くことが弟子たちに求められていることである。

我々は登ることだけを求める。登ることが良いことだと思っている。しかし、終曲を完成するには降ることが必要なのである。登り続けることはない。登ったところに留まり続けることもない。登り、降ることにおいて、すべてが完成する。それが、十字架が語っていることである。何が完成するのか。救いが完成する。地上的なものはすべて登ることと降ることにおいて、神のものとして完成する。降ることを避ける思想には地上的栄光しか見えない。しかし、天的栄光は降ることにおいて完成する。我々も降らなければならない。イエスと共に降らなければならない。イエスのことを聞くということは、我々も降ることを受け入れるということである。十字架を見上げることは、降ることを見上げることである。降ることにおいて完成する終曲を聞くことである。

イエスの山上の変容は、降りゆくイエスに神の出来事の完成を聞くことである。栄光に固執することは滅びに固執することである。滅びに思える降りゆくことにこそ天の栄光、神の栄光がある。人々から見捨てられることに真の栄光が輝く。真の完成は降る信仰において輝くのだ。わたしの息子は降りゆくのだ。わたしの息子として降りゆくのだ。わたしの息子であることは、降ることにおいて選ばれし者なのだ。雲からの声は弟子たちにこう語っている。

苦難の果てに、捨て去られることを受け取る信仰において、神の栄光が現れる。それは、我々が求める栄光ではない。我々は永遠に留まる栄光を求める。我々は永遠に輝くことを求める。しかし、ルターが言うように、十字架に神の背中を認めることこそが、我々の信仰なのである。

輝き続ける栄光に神を認めることは誰にでもできるであろう。十字架という闇に神を認めることは、信仰においてしか可能とならない。闇は光ではない。闇は光がないことである。光なき闇が輝いている十字架。光なき闇こそが神の真実なる栄光と認めるのは、信仰にしか可能ではない。この信仰を受けるためにも、イエスのことを聞くことが必要なのである。十字架を見上げることが必要なのである。十字架において信仰が来る。信仰が起こされる。我々のうちにおける神の活動である信仰が働く。イエスがモーセとエリヤと話していた終曲が神の栄光である。イエスの栄光である。十字架が栄光である。

闇に沈むこと。山を降ること。目に見える栄光を離れること。そこにこそ、神の栄光を認めること。この信仰を与えるために、選ばれし者イエス。この信仰のゆえに十字架を引き受け給うイエス。この信仰の創始者として選ばれし者こそ、わたしの息子であると、父なる神は語り給う。イエスのことを聞くとき、我々は地上的栄光とは正反対の相に神を見るであろう。信仰において見るであろう。信仰が来たり、我々を神の栄光へと開くであろう。そのために、選ばれし者がイエスである。

選びの現れは、輝く白さの中に留まらない。輝く白さを捨て、闇に降りゆく中に現れる。イエスの選びは降る選び。地上の最悪の状態に降るイエス。最悪の状態に置かれている人間の中に降るイエス。このお方こそが、神の息子。神に選ばれし者。我々を救うために降るお方。救いの道は降り行く道である。

神の義は天から注がれる。天から地に注がれる。注がれた地において、義を創造する神。イザヤが語る創造する義は、天から降るがゆえに創造する。我々人間が義を創造されるのは、神が天から注ぐからである。イエス・キリストというお方として注がれる義。我々を神に従う者として創造し給う義。降り給う義こそ、我々罪深き人間を義なる者として創造し給う義。それがイエス・キリストである。イエスの十字架が義を創造する。

我々は創造する義に従って、新しい一年を生きて行く。我々の前にあるのは、降るイエスに従う一年である。目に見える栄光を捨て、降るイエスに従う一年である。天から注がれる義によって、義なる者として創造されることを生きて行く一年である。我々がイエスに従い、降ることを引き受けるとき、低められることを引き受けるとき、我々は神の義によって創造される。神の義であるキリストが我々のうちに創造される。すべてを引き受けて、終曲を満たしていくいのちが創造される。

今日、共にいただく聖餐は、このお方の体と血。このお方が我々のうちに創造し給う義を受ける食事。キリストの体と血に与って、キリストと共に降って行こう。地上の低きところに。地上の闇の中に。闇に輝く真の栄光を望み見て。我々の救いは、我々の罪の深き闇に降り給うキリストの十字架にこそあるのだ。我々の闇に降り給うキリストによって、神に従う道を歩んで行こう、信仰を起こされて。

祈ります。

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