「あなたの父の報い」

2016年2月10日(聖灰水曜日礼拝)

マタイによる福音書6章1節~6節、16節~21節

 

「気を付けなさい。あなたがたの義を、人間たちの前で行わないように、彼らに見られることに向けて。」とイエスは言う。どうして「義を行う」ことが「見られるため」であってはならないのか。義を行っているのだから、それを何のために利用しようとも良いではないか。わたしが人に褒められるために行ったとしても、義を行うのであって、悪を行うのではないのだから、悪くないのではないか。わたしが人に見られることに向けて行った義を受けている人には、わたしの意図など関係ない。正しいことを、義を受けているのだから、何も不満はないであろう。それが偽善者が行うことであろうとも、受ける人は正しいことを受けているのだから、偽善でもないのではないか。それを行った者が、彼の父から報いを受けないとしても、義を行われた者には関係ないのだ。理由が何であろうとも、正しいことが行われるのであれば、誰も文句を言わないのではないだろうか。

いや、人間はそれほど単純ではない。たとえ正しいことを行っていても、批判するものである。良いことを行っていても、褒められたくてやっていると批判するものである。自己顕示欲が強いと批判するものである。批判して、相手を貶めて、自分を守るものである。それ以上に、自分を膨らませたいのが人間である。誰でも、褒められたい。誰でも、認められたい。認められるためには、他者を批判することも、他者を貶めることも、容易にできてしまうものである。このような人間が、正しいことを見られることに向けて、行ってしまうのである。そうして、結果的に、正しいことを行ってもらった人は利用される。利用されるだけではなく、支配される。世話してもらったことが負い目となる。これを人間たちの前で見えるように行っていれば、その人の世話になっていることを誰もが認めるのだから、支配されていることを批判することができなくなる。こうして、自分の支配を広げて行く。

自分に都合の悪いことは隠し、都合の良いことを見てもらいたい。これは普通の人間の姿である。誰でもそうなのである。だとすれば、それが悪いと言われても普通なのだから良いではないかと言いたくなる。誰でもしているのだから、自分だけ我慢したら、他の人に都合よい世界になってしまうと思える。だからこそ、先を争って、自己顕示してしまう。それでも、悪いことをしているのではないから、良いではないかと思うのだが。

悪いことをしていないということ、善いことを、正しいことをしているのだと誰が決めるのか。良いことを行ってもらえた人が決めるのか。それで、その人に利益があったから、感謝するのだろうか。そうであろう。利益の無いことをされても、誰も感謝しない。従って、自分が行うことも自分が受けることも、利益が問題なのである。益の無いことがどれだけ行われてもそれは無駄である。どれだけ善いことをしても、人に認められなければ無駄である。正しいことを行っても、感謝されないならば無駄である。行った相手に感謝されても、それで終わることなく、永遠に「わたしがしてあげたこと」を手に握っていたい。これをしてあげたでしょと、自分の報いを永遠に手にしていたい。そして、自分がされたことは少なく見積もりたい。これが人間なのである。人間の自然的な在り方なのである。この在り方が神に反する在り方であり、神を利用する在り方である。神の前で罪を犯したアダムとエヴァの在り方である。それは、神に支配されたくない人間である。神を支配したい人間である。誰かを支配したい人間である。支配することを広げて行く人間である。イエスが気を付けなさいとおっしゃるのは、そのような自分の罪深い在り方である。罪は、他者を支配し、神を支配しようとするところへ発展するわたし自身のうちにある。この罪に気をつけていることができるのだろうか。

罪は常に我々を欺いて、自分は良い人間なのだと思わせるのである。自分は善人だと思わせる。自分は義人だと思わせる。罪などないではないかと思わせる。自分自身が欺かれる。罪に唆されて、罪を犯す。罪に背中を押されて、さらに罪を広げる。良いことをしていると思わされて、悪を行っている。他者を支配する世界を構築していく。他者を支配し、神を支配して、自分の世界を構築していく。これが我々人間の罪の世界である。

これは気をつけていても、わたしの全体が罪の支配に浸ってしまっているのだから、抜け出せないのだ。それなのに、イエスは「気をつけていなさい」と言うだけである。どうしてなのか。気をつけていても、抜け出せないのだから、気をつけていることができないのである。だからこそ、イエスは気をつけていなさいと言うのだ。気をつけていることができないがゆえに、気をつけていなさいと言われなければ、思い出しもしないであろう。それが、我々人間の甘さである。自分への甘さゆえに、気をつけていることを忘れてしまう。忘れてしまうがゆえに、罪に付け込まれてしまう。罪に支配されてしまう。これが我々罪深い人間なのである。

我々はイエスがおっしゃる言葉を聞かなければ、気をつけていないであろう。イエスがおっしゃる言葉を聞き続けなければ気をつけていないであろう。いや、聞き続けているとしても、新たに聞かなければ気をつけないのである。新たに、自らの罪深さ、自らの甘さを認めなければ、気をつけないのである。このような人間が如何にして気をつけていることができるであろうか。みことばを聞き続けることはもちろんであるが、自らが自分に甘いということに気をつけていなければならないのだ。みことばを聞き続けるということは、常に新たに聞くことである。常に新鮮に自らを振り返ることである。常に新たな自省を行うことである。

これはどうあってもできない自分を知っていることからしか行えないことである。どうあっても、自分を誇ってしまう自分を忘れないこと。どうあっても、自分が認められることを求めてしまうわたしを忘れないこと。罪に支配されているわたしを知っていること。そのような人間が罪を広げてしまうことを知っておくこと。そこにおいて、我々はイエスの言を聞く耳を開かれる。イエスの言を聞き、自分を省み、イエスの言を聞く。そして、自分を省みる。この繰り返しがなければ、我々は罪の支配に陥ってしまうのである。

それゆえに、気をつけていることをイエスは求める。気をつけているようにと勧める。その結果、父の報いを受けるのだからと。父の報いを受けるということは、父の子としての自分を認めて生きることである。父なる神の子どもとして、父の支配の下に生きることである。天の父は、わたしのすべてを知っていると生きることである。父がわたしのすべてであると、父の子として生きることである。そのとき、我々は謙虚に生きるであろう。父が知っておられると、隠して生きるであろう。隠れておられる父を認めながら生きるであろう。

あなたの父の報いは十字架である。あなたが罪深くとも愛する十字架である。あなたの愚かさをも耐え忍び給う十字架である。あなたの悪しき心さえも引き受け給う十字架である。あなたの父は情け深い。あなたを愛するがゆえに、報いを与え給う。報いと言えない報いを与え給う。あなたには何も報いを得るべきものがないにも関わらず、あなたをご自分の子として生かし給うのだ。愛し給うのだ。あなたが塵に過ぎないことを知っておられる父が、塵に命の息を吹き込んでくださったのだから。罪深く、罪に支配されているあなたが、塵に過ぎないにも関わらず、自負に膨らむとしても、あなたに再び命の息を吹き込んでくださる。キリストの十字架を通して、吹き込んでくださる。

あなたの父の報いは大きい。あなたが報いに値しなくとも、与え給う。ただ、自らの哀れさ、愚かさ、罪深さを認め、ひれ伏すとき、あなたは父の報いを受けている。父の報いは、あなたを生かす愛。十字架の愛。罪から解放する愛。塵であるあなたに命を吹き込み、子として新たにしてくださる。四旬節のとき、十字架を見上げつつ、常に目を覚まして歩いて行こう、キリストに従って

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