「神の語り」

2016年2月14日(四旬節第1主日)

ルカによる福音書4章1節~13節

 

「あなたの神、主を試してはならないと、言われてしまっている。」とイエスは最後に悪魔に答える。それまで、「書かれてしまっている」と反論していたのに、悪魔が「書かれてしまっている」と同じ言葉で最後の試しを仕掛けてきたからである。ということは「書かれてしまっている」ことが絶対的神の意志を表しているわけではないことになる。「書かれてしまっている」ことと「言われてしまっている」こととはどちらが絶対的な神の意志なのであろうか。聖書という書かれてしまっている言葉が神の意志なのか。聖書に書かれてしまっている言葉を神が言ってしまっているがゆえに、神の意志なのか。聖書は神の言だと言われるが、神の言は言われてしまっている言葉である。神が言った言葉が聖書に書かれてしまっているからである。ということは、神の言った言葉が、書くという行為において、固定化されていることになる。しかし、固定化されてしまったとき、書かれてしまっている言葉は硬直した言葉になる。むしろ、神が語るということにおいて、神が語りかける出来事自体が重要なのである。聞く者が、神がわたしに語り給うと聞くことが重要なのである。そうでなければ、書かれてしまっている言葉は客観的な言葉でしかなく、固定化された教理のようになってしまうのである。むしろ、神が語るという出来事が書かれてしまっている言葉を読むたびに生じることが重要なのである。

悪魔が「書かれてしまっている」と言うのは、「書かれてしまっている」固定化した言葉を利用して、イエスを動かそうとしているのである。それまで、イエスが「書かれてしまっている」と答えていたのは、「言われてしまっている」と同じ意味においてである。イエスは、聖書に「書かれてしまっている」ことを法律の条文のように引用しているのではない。聖書に「書かれてしまっている」言葉を自らが神から聞いているのである。書かれてしまっている言葉を神が今イエスご自身に語ってしまっていると聞いているのである。これが聖書を読むということである。

聖書は「書かれてしまっている」言葉ではあるが、読んでいるわたしが「言われてしまっている」と受け取るときに「書かれてしまっている」言葉がわたしを動かすのである。「書かれてしまっている」言葉はわたしが動かされる神の言である。反対に、悪魔が用いるように、誰かを動かすために使う「書かれてしまっている」言葉は生きていない。法律の条文のように無味乾燥にそこにあるだけである。そこにあって、人を縛る条文、人を操る条文である。しかし、「言われてしまっている」言葉として聞くときには、わたしを縛り操る条文ではなく、わたしを生かす神の意志として聞こえているのである。

では、わたしが生かされるために聞くということであれば、聖書の書かれてしまっている言葉は神の言なのであろうか。いや、わたしが自分のために聞くときには、他者を動かすために用いる言葉と同じになってしまうのである。何故なら、わたしがその言葉を利用しているからである。わたしが自分の意志を実現し易いように使う言葉となっている。そのとき、神の言ではありえない。そのとき、神の言ではなく、わたしに利用される言葉となってしまうのである。それでは、生ける言ではない。むしろ、わたしが自分のために利用できるような都合の良い言葉となっているのである。わたしが自分の意志を実現するために使うのだから、神の言ではありえない。たとえ、それが書かれてしまっている言葉、聖書の言葉であろうとも。

では、我々が聞くとき、神の言となるのであろうか。いや、神の言はすでに言われてしまっている言葉である。それが書かれてしまっている言葉として聖書に記されているのだ。記されている言葉は、すでに言われてしまっている言葉であるが、それを聞いた人が自分に言われてしまっていると受け取った言である。それゆえに、言われてしまっている言葉である。それを書かれてしまっている言葉として記している聖書の言葉を読んで、自分に言われてしまっている言葉として聞くとき、言われてしまっていることがその人に実現するのである。それゆえに、書かれてしまっている言葉を条文のように使用することは書かれてしまっている言葉の本来性を失わせる。本来、言われてしまっている言葉なのであるから、自分への言葉として聞かなければならないのである。そのとき、我々は神の語りを聞くのである。

我々が、誰かに神の語りを聞かせようとしてはならない。神の語りはわたしが聞くのである。誰かに聞かせようとするとき、神の語りではなく、わたしの語りとなってしまう。わたしの意志を実現するためのわたしの語りとなってしまう。こうして、神の言がわたしの言葉となる。これが悪魔の言葉である。悪魔が人間を試す誘惑の言葉である。悪魔の誘惑の言葉は、悪魔の「わたしの言葉」である。わたしが悪魔となる言葉である。誰であろうとも悪魔になり得る言葉である。悪魔が神の言を利用するというのはこのような仕業である。それは書かれてしまっている言葉が利用されるということである。

書かれてしまっている言葉が言われてしまっている言葉として機能するのは、わたしがその言葉の下に置かれるときである。今、神御自身がわたしに語り給う言として聞くとき、わたしはその言の下に生きている。いや、その言葉の下に生かされている。わたしが生きるということは、神がわたしに言葉を語り給うときである。神がわたしに語り給う言としてわたしが聞くとき、そのとき神の言がわたしの上に生じる。こうして、神の言はわたしを動かし、造る言として働くのである。力ある、生ける言葉として、働くのである。

イエスが神の言の下に生かされるように生きたがゆえに、悪魔は何もできず、すべての試しを終えて、カイロスまでイエスを離れたのである。カイロスは神の介入の時である。それゆえに、悪魔はもはや神に介入されて使われる存在となったと言えるであろう。それは、ユダに悪魔が入り込むことを示しているのが、ユダが悪魔に使われることは、神に使われる悪魔によって生じるということである。神が悪魔を使う。それは、神御自身のときまで悪魔を保留したということである。神が定め給うたときまで悪魔は動くことができなくなったのである。何故なら、イエスが神の言の下に生かされる自分を生きていたからである。従って、悪魔が最後にイエスを試すこと、ユダによって試すことは神がそれを許し給うがゆえに生じる。生じた神の介入において、悪魔的、人間的な事柄が生じる。しかし、それは神の時、カイロスとして生じるのである。それゆえに、たとえ悪魔がうごめいているように見えても、イエスにおいては神の時カイロスなのである。何故なら、イエスが「言われてしまっている」言葉だけを聞いているからである。

我々が「書かれてしまっている」言葉を「言われてしまっている」言葉として聞くならば、悪魔に動かされることはない。その言葉は条文のように死んだ言葉ではなく、わたしを生かし給う神の言として「言われてしまっている」からである。そのような言として、わたしが聞くのは、信仰においてである。信仰の言葉として、神の言が働くときである。我々に命を与える言はこのような言葉である。わたしを新たに造り給う言である。わたしが神から聞かされる言である。

神の語りはわたしを神の言の下に置いて、わたしを生かす。神の語りを聞くには如何にすれば良いのか。イエスを通して聞くことである。聖霊の働きの中で聞くことである。誰かを動かすために聞かず、わたしが服従するように謙虚に耳を傾けるときである。神の言、神の語りは、わたしを包み、わたしを神のものとして生かす言葉、生かす語りである。イエスは、この言葉を聞き給うた。この言葉をわたしに聞かせ給う。十字架の言として聞かせ給う。神の前に、ひれ伏し、自らの罪深さを認め、神がわたしに語り給う恵みの言を聞くように、聞かせ給う。聖霊の働きの中で、わたしは神の語りを聞かせられる。わたしを神のものとし給う語りに耳を開かれますように。祈ります。

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