「隠されてしまっている言」

2016年2月21日(四旬節第2主日)

ルカによる福音書18章31節~43節

 

「この語られた言葉は、彼らから隠されてしまっているものとしてあった。そして、彼らは誰も認識しないままであった、言われていることたちを。」と弟子たちはイエスが語られた言葉を認識しなかった。それは隠されてしまっているものであったからだと言われている。どうしてなのか。どうして、隠されてしまっている言だったのだろうか。何のために、隠されてしまっていたのだろうか。弟子たちが認識するために必要なものが何であるのかが、この後の目の見えない人の癒しにおいて語られている。それは信仰である。しかも、自発的な信仰のように思える目の見えない人からのイエスへの求めの切実さが記されている。これと弟子たちの無認識との間には信仰が横たわっている。では、弟子たちが信仰を求めれば良いのだろうか。そうすれば、彼らは隠されてしまっている言を認識するのであろうか。しかし、目の見えない人の信仰はどこから来たのか。彼自身がどうしてここまでイエスに求めることになったのか。彼はどこでその信仰を獲得したのであろうか。

イエスから褒められるほどの信仰を目の見えない人が持っている。他方、弟子たちは信仰もなく、隠されてしまっている言を認識もできない。彼らは認識できていないことすら認識していない。それでは、彼らから認識しようとの思いは生じないであろう。自分が認識していないことを知るということがなければ、求めることもないからである。しかし、認識していないことを認識しているならば、認識しているのである。認識していないということを認識しているということが認識していることなのである。そこから始まるのだが、その始まりはどこから来るのだろうか。

目の見えない人の姿を見るとき、我々はここまで求めているだろうかと思う。彼のように、執拗にイエスに求めているだろうか。憐れんでくださいと求めているだろうか。彼は自らが見えないことを認識している。それゆえに見えるようになることを執拗に求めるのである。彼はイエスに求める、癒しを。見えるようになる力をイエスに求める。これが信仰である。しかし、弟子たちが自らの無認識を認識していないように、見えていないのに見えていないと認識していないのが我々なのである。そのような状態では、誰にも求めることはない。誰かが教えてくれても、求めない。あくまで、見えるようになりたいという意志が自分のうちに起こされなければ、求めないのである。この意志はどこから来るのか。誰が起こすのか。

目の見えない人の意志はその人の意志である。弟子たちの意志は弟子たちの意志である。それぞれの意志はそれぞれのうちに生じる。生じさせるのはそれぞれの人間であるかのように思える。ところが、その人のうちに生じる意志は、その人が意志したと言えるような単純なものではない。環境に影響される。周りの人、社会の動き、流行り廃りなどに影響されて、我々は自分が意志しているかのように考えている。ところが、人間は自分の置かれた環境の中で流されながら選択して、意志しているのである。では、流されず、自分だけで選択し、意志することがあるのだろうか。あるのだ。目の見えない人が意志したのは、孤独の中で自分自身と向き合ったからである。彼は周りの人や環境によってイエスに求めているわけではない。むしろ、周りや環境に反して、イエスに求めているのである。これは彼が孤独であったがゆえである。

反対に、弟子たちが無認識に陥っているのは、弟子たち同士の関係や人間的思惑の中で、イエスの言を理解しようとしているからである。エルサレムへの上って行くことと、イエスの受難と復活の言葉とは合致しない。エルサレムへの上昇を栄光であると考えるがゆえに、受難は認識できないものとなるのである。社会に受け入れられること、認められることを求めているがゆえに、弟子たちにはイエスの受難の言葉は認識できない言となっている。隠されてしまっている言となっているのである。

目の見えない人は、どこまでも孤独である。周りに左右されることはない。むしろ、周りから、社会から見捨てられている。それゆえに、ただ独り、自分自身のありのままの思いと向き合うことができるのである。彼には自分の思いが隠されていることはない。誰かに気に入られるように考えることはない。気に入られるように行動する必要もない。誰からも叱られ、黙らされるとしても、彼自身はそのような人間たちに迎合する必要を持たない。彼自身がただ独りで立たなければならないからである。この孤独の中で、目の見えない人は自らの意志を確かに口にすることができたのである。

彼は孤独の中で、ありのままに自らを認識していたのだ。孤独の中で、自分が何を求めているのかを認識していた。何が必要なのかも認識していた。それを与えるお方も認識していた。「ナザレのイエス」が憐れんでくださることが、わたしがわたしであることなのだと認識していた。そこから、目の見えない人の冒険が始まる。イエスを探し、求め、祈る冒険が始まる。目の見えない人は、孤独の中でさらに周りからも蔑まれ、疎まれることを選択した。あえて、イエスに執拗につきまとった。そして、イエスを振り向かせたのだ。彼の孤独が彼を押し出した。

イエスを振り向かせた目の見えない人の孤独。孤独は寂しいことではない。むしろ、神共にいます幸いである。神も孤独なのだ。人間が神を捨て去り、人間の意志によって、すべてを満たそうとするからである。誰も神を求めない。誰も神に従わない。誰も神を第一とはしない。自分を第一として生きているのが人間である。この人間から捨て去られている神こそ、究極の孤独を生きている。真実に孤独を生きている者でなければ、イエスの言は理解できない。認識できない。イエスの言はイエスの内奥にある孤独から発せられているからである。神の孤独から発せられている言。それが隠されてしまっている言である。この言を認識するのは孤独な存在。独り座しているしかない目の見えない人だけである。彼は、自らの孤独の中で、イエスが捨て去られることを認識する。イエスの孤独を認識する。イエスの欠乏を認識する。自らの欠乏において認識する。それゆえに、彼は求める、自らがイエスによって満たされることを。この求めにおいて、イエスご自身の求めが認識されている。イエスご自身における神の求めが認識されている。神が求める人間が認識されている。

神は求めている、人間が神の意志に従うことを。神は求めている、世界が造り主に従うことを。神は求めている、捨て去られる孤独の中でいのちはありのままであると。神は人間が独りでご自身に向かうことを求めておられる。この神の欠乏を目の見えない人が認識した、彼の欠乏の中で。欠乏していることを認識している者が真実に世界を認識している。ありのままに世界を認識している。造り主の孤独を認識している。十字架の上で、神の孤独を生きるお方を認識している。この孤独を生きていなければ、誰も神を認識することはない。神の意志を認識することはない。イエスが目の見えない人の孤独の叫びに目を留めた理由がここにある。

捨て去られる十字架を認識する孤独な存在だけが、自らをありのままに認識する。これが、ルターが言う試練である。試練において、孤独の中で神の言を聞くように耳が開かれる。試練を経験しない信仰は人間的な信仰に留まる。自分が信じることができる信仰に留まる。信じることができない孤独の中で、それでも信じるようにされるとき、神からの信仰が与えられているのである。

今日、我々が共にする聖餐は、キリストの孤独との交わりにおいて、食するキリストの体と血なのである。人間同士の交わりとしての聖餐ではない。十字架のキリストとわたしとの交わりである。食するたび、飲むたびに、主の死を告げ知らせるとの使徒パウロの言葉の通り、主の死に一体化されるわたしを知るのである。主よ、憐れんでくださいと祈りつつ、主の体と血に与ろう。キリストはあなたのうちに来たり給い。あなたのうちに生きてくださる。主の死があなたのうちで命となる。

祈ります。

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