「来るべきことへ」

2016年2月28日(四旬節第3主日)

ルカによる福音書13章1節~9節

 

「来るべきことへと実を結ぶかもしれない。」と言われている。「来年」とは「来るべきこと」である。来るべきことは、来るということの可能性である。可能性へと実を結ぶということは、現実とはなっていなくとも、可能性があるということであろうか。可能性があるということは、現実が内包されているのであろうか。

確かに可能性「来るべきこと」は現実となっていなくとも将来可能であることを指す。しかし、それはあくまで可能性であって、現実ではないので、賭けでしかない。来るべきことへと賭けるということは、来るべきことが来なかった場合には損失を生むことになる。それゆえに、主人はイチジクの木がこれまで何も生み出さずにいた期間を損失として問うている。どうして、損失を生むままにしておくのか。イチジクの木が地を塞いで、地を働かなくしてしまっている。それでは地は無効化されているではないか。どうしてそれで良いだろうかと、主人は問うのである。

確かに、無効化された地は、そこにあるのにないようにされているのである。それでどうして良いのかと思うのは当然である。それなのにまた、「来るべきことへと実を結ぶかもしれない」とどうして言えるのか。確かに、可能性は全くないわけではない。としても、いい加減に止めた方が良いのではないのか。しかし、イチジクの木を取り去って、別の木を植えたとしても、一年では何も起こり得ないであろう。従って、さらに数年の無効化が起こる。それよりも、とりあえずもう少し待ってみましょうと園丁は言うのではないのか。

いや、確かにそうだが、それでも無効化はいずれにしても起こっているのだ。それよりも、新たな可能性の方がもっと可能性があるのではないのか。来るべきことはもっとあるのではないのか。いや、それはいずれにしても同じ可能性でしかない。それゆえに、園丁は言うのだ。「来るべきことへと実を結ぶかもしれない」と。可能性は可能性である。古いイチジクの木であろうと、新しい木であろうと。同じ可能性であって、現実ではない。園丁は新しい可能性ではなく、古い可能性に賭ける。すでに植えられている可能性に賭けるのである。今植えられているイチジクの木は今実を結んでいないとしても、今植えられている木なのだ。それゆえに、園丁はその木の可能性を認めようとする。いまだ植えられていないものが如何に可能性があると言われても、植えられていないのだから植えられることの可能性でしかない。それゆえに、現実に植えられているイチジクの木の可能性を選ぶ園丁なのである。これが神の意志なのだとイエスは言うのだ。従って、このたとえの前の悔い改めの勧めも、現実に生きている者としての悔い改めを語っているのである。

現実にブドウ園に植えられているイチジクの木であることを守る園丁の姿は、現実に悔い改めるべき存在は現実のわたしであることを語っているのである。それは、ピラトに殺されたガリラヤ人やシロアムの塔の事故で死んだ人たちの現実のうちに神の意志を見ようとしない現実逃避に対して語られているのである。この現実逃避は、彼らが不幸であったことで、自らが比較的幸いであると考えてしまうことに陥る。自らが悔い改めることなく、ただ安心するだけである。あんな不幸に見舞われたということは、彼らが罪深かったからなのだ。あんな不幸に見舞われていないわたしは罪が少ない。あるいは、罪がないと考えることに陥る。このように、我々は他人の不幸によって、自らを慰める。他人の不幸によって、自らを安心させる。さらに、死んでいないのだからまだまだ大丈夫だと思い込む。こうして、我々は悔い改めることなく、何も改善せず、今まで通りに過ごしていく。

しかし、イチジクの木に関わる園丁の言葉は「あと一年」という可能性の限界を語っている。来るべきことへと実を結ぶかもしれない可能性。これは「もし、そうでなければ、あなたはそれを切り倒すでしょう。」という言葉で閉じられている。「そうでなければ」ということが限定的に閉じられている。従って、実を結ばないという決定のときが限定されている。限定されているので、その限定を受け入れて、自らの現実の悔い改めを求める言葉になっているのである。

もしそうでなければ、あなたは切り倒すでしょう。という未来は、どこに来るのか。来るべきときに来る。来るべきことが来る。それは確実に来るとき、来ることである。そのときに向かって、猶予されている時間。それが可能性の時間である。それでも、実を結ばないという現実は如何にして現実となるのか。実を結ぶときは現実である。しかし、結ばないときは現実には何もないときである。来るべきことが来なかったという現実である。これはあくまで決められた限定的なときによってしか決定できないことなのである。それゆえに、園丁は主人に言うのである。「来るべきことへと実を結ぶかもしれない」と。

主人が言う「三年」という数は決定的な数字である。三年だめならば、決定的にだめなのだ。それでもなお、「来るべきことへ」という可能性を語る園丁がいる。この園丁が主人に執り成すことによって、地を無効化しているようなイチジクの木が守られる。この執り成しがイエスの十字架である。

我々は、神の裁きの前に、決定的に無効化している我々の罪を見られているのだ。それにも関わらず、神がイエスを遣わし、十字架の死に引き渡されたのは、あくまで「来るべきことへと実を結ぶかもしれない」という可能性を保持するためである。この可能性は、先ほど見たように、現実の可能性である。現実に植えられているイチジクの木の可能性である。いまだ見えない木の可能性ではない。そこに我々の救いの現実があるのだ。十字架の現実があるのだ。

我々はこの現実を与えられている存在である。シロアムの塔の事故で死んだ人たちやピラトに殺害されたガリラヤ人たちは滅んでしまったのかどうかは、滅んでしまったと見る人間の視点である。そのように見るのであれば、自らが悔い改めることを考えるべきなのである。そうでなければ、我々はただ比較的安心できるところに留まるからである。そして、現実に滅びていないのだから、良かったと安心する。彼らの滅びを考えるのであれば、自らの滅びを考えるべきである。そうしてこそ、たとえの園丁の言葉に自らの希望を見出すであろう。可能性を保持されているわたしが可能性を現実に生きるようになることを求めるであろう。そうしてこそ、「来るべきことへと」生きることになるのである。

このイチジクの木自体には、自らの可能性を閉じているということも分からないのである。可能性を自分で閉じているのかもしれない。実を結ばせるのは、地の力自体であって、その力をさらに充実させるように働く園丁によって、新たな可能性が付与されるのである。それゆえに、園丁はキリストの十字架を指し示している。それでもなお、悔い改めないという実を結ばない現実が現れるかもしれない。その可能性も、現実に植えられている木であるがゆえに、あるのである。来るべきことがあるのは、現実に実を結んでいない現実に植えられた木なのである。

我々も実を結んでいるのか否かを自らに問わなければならない。悔い改めるということは、実を結ぶことであるが、実を結ばせる力を地に加え給う園丁による。この園丁がキリストであり、キリストが自らの労苦の上に、我々の現実の可能性を保持しようとされたのである。我々はキリストによって来るべきことへと伴われて行く存在。そのために、みことばの肥やしを与え続けてくださるキリストの心を受け取り続けよう。キリストの言は、我々の魂を来るべきことへと開く力。語り給うキリストが我々をご自身の憐れみのうちで生かしてくださる。四旬節のとき、我々が、キリストの言に、十字架の言に、我々の救いの力、肥やしを認め、聞き続けて行く者でありますように。無効化しているわたしを変えてくださいと祈りつつ。

祈ります。

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