「自己に至る者」

2016年3月6日(四旬節第4主日)

ルカによる福音書15章11節~32節

 

「しかし、自分自身へと来たって、彼は言った。」と言われている。新共同訳で「我に返る」と訳されている言葉は「自分自身へと来る」である。我に返るとは今まで見失っていた我に戻るという意味である。しかし、この息子は見失っていたのであろうか。いや、自己に至ってはいなかったのである。彼は自己に至るために、この放蕩の生活をしたとも言える。兄の方は、いまだ自己に至ってはいない。自己に到達していない。それゆえに、真実に自己を生きていないのである。

誰かのために生きるということは、真実に自己に至った者が生きることである。自己に至っていない者は誰かのために生きることはできない。あくまで、自分のために誰かを利用するのである。あるいは、誰かに気に入られるために生きるのであり、そのときには自己は真実に生きていない。誰かに縛られて生きている。誰かの気に入るようにしか生きられないのだから、兄のように不満を抱えることになる。弟も好き勝手に生きているようでいて、実はお金に寄りついて来る者に縛られて生きている。お金がある間は寄り付く者の真実が見えない。失って初めて、寄り付く者がお金以外に求めていたものはなかったのだと知るのである。自分自身が何であるのかが弟も兄も分からないままである。

我々人間は自分を最初から失っている。それは堕罪の結果である。アダムとエヴァの堕罪の結果、我々は自己を失っているのである。堕罪こそが自己喪失だったのである。何故なら、蛇の言葉に誘われて、神の命の息を吹き入れられた自己を失ったのだから。神の息を吹き入れられた我々人間は、神の言に従ってこそ、真実に自己を生きることができるのである。神の前でありのままの自己を生きることができる。しかし、堕罪の結果、真実の自己を失った。神が男と女に労苦を与え給うたのは、この自己を見出させるためであった。それゆえに、アダムには土を耕す労苦が与えられた。エヴァには産みの苦しみが与えられた。苦しみの中でこそ、我々は真実の自己に至るのである。自己に至る者こそ、キリストに従う者、キリストの者、キリスト者である。キリストが負われた十字架の苦しみがその命の源泉である者。それがキリスト者なのである。

さて、放蕩息子は金を失って、食べるに事欠き、苦労している。自分の命を保持するために、何もできない自分を知る。それが真実の自己なのである。にもかかわらず、父の許ではどんな者であろうとも食べることができたのだとの認識が開かれた。この認識によって、父の許に命の源泉があったことを知るのである。我々人間はどんな者であろうとも自分で命を保持することはできない。生かされて生きている。自分の命を守るのは自分だと思う人もいるであろう。しかし、自分の命さえも守れないのが人間なのである。自分の命は人間が守ることができないものなのである。自分で守っていると思っている限り、我々は未だ自己に至っていない。自己に至る者は、自分の命を造り、守り、救い給う神を知るのである。神がおられなければ生きえない自分であることを知るとき、我々は自己に至る者である。

弟は、自分が招いたとは言え、苦難の中で漸く自己に至るのである。苦難は被らざるを得ず、苦難を引き受けるしかない。我々は自分から苦難を選ぶことはできない。自分からは選ばないだろうし、選び得ない。何故なら、苦難は我々に与えられた神の恵みなのだから。アダムとエヴァが労苦して、自己を耕し、自己に至るようにと願われた神は、彼らに恵みとしての苦難を与え給うたのだ。我々アダムとエヴァの末裔は同じように苦難を恵みとして与えられるのである。自分から苦難を選ぶことはできない。神が与え給う苦難を引き受けるのである。そのとき、我々は神の恵みとして苦難を受け取るであろう。自分で選ぶとき、自分で苦難を起こそうとするときには、結果的に我々の獲得でしかないので、神の恵みとして働くことはない。そして、自己には至らない。

神の恵みは、我々が獲得することも選ぶこともできない。ただ与えられ、ただ受けるだけである。放蕩息子も苦難を選んだわけではない。彼は幸いを願って、お金を持って出かけた。しかし、苦難を得ることになった。彼が望んでいたわけではない。むしろ、彼は願ったことと反対のことを与えられたのである。それも自業自得と兄からは思われるであろうように勝手に生きたのである。その果てに、弟は苦難を与えられた。苦難の中で、弟は自己に至った。自分で守ることのできない命を守ってくれる父がいたことを知る。父の家では命が守られていた。この命の守り、命の家が父の家であったと知ったのである。

兄は、ずっとその家にいて、苦労なく生きている。彼は自分が弟よりも苦労していると思っている。しかし、兄は父に気に入られるようにと生きているがゆえに、自分は苦労しているのだと思っているのである。それは自分が選んだ苦労である。彼が被った苦労ではない。彼が与えられた苦労でもない。彼がこの苦労から解放されたいと願っているような苦労である。その苦労の中で、弟の自分勝手な姿に腹を立てるのである。それゆえに、兄にとって苦労は被るものでも恵みでもなく、父の許における命の幸いは彼には見えない。兄は弟と同じように自分に至っていない。彼は恵みとしての苦労を被っていないので、苦労を与えられたと思っていない。苦労は弟の所為だと、他者の責任になっている。

弟は、自己の責任で苦難の状態に陥っていることを了解している。自己の責任において、弟は苦難を引き受けざるを得ない。苦難の中で、自己の儚さを知る。兄は、自己の儚さは知らない。自己の労苦だけが見える。自己の努力だけが見える。自己の我慢だけを認識する。自己の命の儚さに至らない者は、自己に至っていない。キリストに至っていない。キリストの十字架がわたしの罪の結果であることを見ない。キリストの十字架にわたしの罪を見ない。自らの罪の深みを知らない。キリストの十字架の深さ、広さ、長さが見えない。自己に至る者は、自らが何もなし得ず、自らを救い得ず、自らが失われていることを知る。そうである。自己に至る者は失われている自己を知る者である。

このような自己を生かし給うお方、父なる神を知る者は、自己に至った者である。神が与え給うた苦難を恵みとして受け取る者である。恵みは我々のうちに神への信頼を起こし、神を信じて生きる世界を開く。そこに至るには、自己の罪を認めること、告白することが必要なのである。罪によって死んでしまっている自分を告白するのである。そのとき、我々は新たに命を与えられる。神の息を再び吹き入れられる。吹き入れられていた神の息の働きを改めて受け取るのである。

我々は自分で生きることはできない。神に生かされている。自分で自分の体を動かしてはいない。神が動かしている。神を信じるのはわたしの力ではない。信じる力である信仰を神が与えてくださるがゆえに信じる者とされるのである。自己に至る者は、神によってすべてが可能なのであることを知る者である。わたしの力など何もないと知る者である。我々人間は、罪に支配され、神の力などないと思わされている。アダムとエヴァも蛇の言葉によってそのように思わされ、自分が神になることを求めたのである。罪の支配によって見失っている自己に至る者は、自己の無力さを知る者である。苦難を被って、恵みとして受けた者である。キリストの十字架によって、その認識を開かれた者である。我々は自己に至った者であるが、いまだ罪の支配は我々を翻弄する。それゆえに、我々には今日もキリストの体と血が与えられるのである。キリストが被った苦難の中で与えられる体と血は、我々に苦難を補い与え給う。我々が失われないために、キリストが引き受け給うた苦難の十字架から与えられる体と血。キリストの死こそ、真実なる自己に至らしめる命である。この命をいただいて、日々新たなる内なる人が生まれてきますように。真実なる自己が生きてきますように。キリストがあなたのうちに形作られ、あなたとキリストとが一つとされて行きますように。この週もキリストに従って生きて行こう。

祈ります。

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