「神の時に」

2016年3月13日(四旬節第5主日)

ルカによる福音書20章9節~19節

 

「そして、カイロスに、彼は派遣した、農夫たちのところへ、奴隷を。ぶどう園の実から、彼らが与えるために、彼に。」とイエスは語っている。「カイロスに」とは新共同訳が訳すように「収穫の時になったので」という意味ではある。しかし、「カイロス」とは神が介入する時であり、一瞬の中にすべてが充填されている時である。神の意志に従って、神が介入するときがカイロスである。従って、単に収穫の時ということではない。すべてが満ちた、相応しい時なのである。それは神の意志に従った時である。それゆえに、人間には突然に思えるものである。農夫たちは、突然やって来たと思ったであろう、ぶどう園の主人の奴隷が。彼らは突然の時を受け入れることができず、暴力をもって主人の奴隷を虚しく返してしまう。これが始まりである。カイロスを受け入れられない人間の業の始まりである。神の時に従うことができない人間の業は、行き着くところまで行く。主人の息子の殺害、これが農夫たちの究極的拒否である。人間が神の意志を究極的に拒否したことをイエスはこのように語ったのだ。「神の時に」、神の意志に従うことが信仰なのだから、ここにあるのは不信仰である。不信仰が、虚しさを作り出してしまう。神の意志が充填されているカイロスに、虚しいものケノスを作り出してしまうのが人間の不信仰である。不信仰が、神の時カイロスを拒否してしまう。拒否すればそれで人間の時が満たされるのかと言えばそうではない。農夫たちが殺されるように、人間の時は滅びの時である。

さらに、隅の親石の詩編118編22節の言葉は人間が吟味して不適格としたものを用いる神の不思議な業を語っている。これがキリストの十字架である。人間の思いはすべてを虚しくする。人間の判断は曇っている。人間の吟味は狭い世界における吟味である。家を建てる者たちが、吟味した結果、不適格と拒否された石。しかし、後にそれがなければ、石造りの家が固定されないような石となる。これは否定され、否認され、拒否されていたのだから、どこかに転がっていたのだ。それは発見されなければ用いられない。神が発見するのか。いや、神は見失ってなどいないのだ。最初から神は隅の親石として造っている。それを認識できずに捨てるのが人間なのである。そして、最後の固定のために拾い上げるようにさせるのは神である。神が備えた時カイロスを受け入れる者が拾い上げる者である。常に神の意志に開かれている者である。最終的にすべてを満たすように完成するのは神である。すべてが満たされている神の時カイロスに完成するのは神である。この神の時に開かれている者こそ、キリスト者である。キリストのものとされた者たちである。彼らは、神の時に向かって開かれている。常に開かれているゆえに、常に受け入れる。常に受け入れるゆえに、常に満たされて行く、神の業に。

反対に、受け入れない者は自らが虚しいので、世界を虚しくしてしまう。自らが満たされていないので、奪い合って、世界を虚しさの中に放り込む。こうして、争いが争いを生み、殺戮が殺戮を生む。虚しさが広がり、何も残らなくなってしまう。これが神の時カイロスを受け入れない人間の世界である。自然的人間は、神の時に、神の意志を受け入れない。カイロスは突然やってきて我々を包み、神の恵みに満たそうとする。しかし、人間的判断によって、カイロスを拒否する人間は神の恵みを拒否する。そして、自らが虚しくなり、奪い合う世界を造ってしまう。これがぶどう園の農夫の姿。我々自然的人間の姿。我々罪人の姿。

しかし、誰もが「そんなことが生じないように」と言うのだ。そんなことが生じてはならないと言うのだ。それなのに、生じる。誰かが行う殺害を見て、わたしはそんなことはしないと考える。そんなことは生じてはならないのだと考える。それは誰もが思うことである。しかし、それは生じる。どうして生じるのか。我々の罪が生じさせるのである。我々は自分が良い人間で、そんなことをする人間は悪い人間だと思っている。ところが、我々もこの農夫たちと同じ人間である。良い人間などいない。我々は皆この農夫である。自分の仲間は大事にするが、仲間ではない者を排除する。さらに、仲間の利益を守るために、突然の参入者は拒否される。これが我々人間の世界である。どこの世界であろうとも同じである。誰であろうとも同じである。我々は皆この農夫たちなのだ。

イエスのたとえを聞いた律法学者や祭司長たちは、そのときに、イエスに手をかけようとする。イエスのたとえを聞いて、自分たちのことだと受け取ったがゆえに、悔い改めるのではない。反対にイエスを殺そうとするのである。これが神の言が人間をかたくなにするということである。神の言によって、悪しき器が悪しきことをなすということである。それは我々自身である。ここから、誰も抜け出すことはできないのだ、自分の力では。これが哀れな罪人の姿であるとイエスは語っておられる。ここには救いはない。罪人に救いはないのだ。殺人者に救いはないのだ。破壊者に救いはない。虚しさを広げる者に救いはない。しかし、最後にイエスは言う。「主人は、ぶどう園を他の人たちに与えるであろう。」と。この「他の人たち」とは誰なのだろうか。神の霊を与えられ、神の意志を生きるようにされた者たちである。神の言によって、造り変えられた者たちである。神の言と一つになった者たちである。神の言がその人のうちにキリストを形作っている人たち、真の意味でのキリスト者である。

罪人で、殺人者である我々のところに、神は御子を遣わし給うた。御子が殺害されるとしても遣わし給うた。御子の殺害を神が用い給い、隅の親石として生かし給うた。我々罪人が隅の親石となる石だと認識しなくとも、隅の親石である御子は隅の親石として生きている。捨てられても、拒否されても、否認されても、隅の親石として生きている。それが、御子が御子であるということである。神が造り給うた隅の親石は、初めから隅の親石なのである。この事実を受け入れる者は、神の時カイロスに従う者である。たとえ神の時、神の意志を拒否した者であっても、変えられるときが来る。そのときもカイロス神の時である。そのとき、神の時に従うならば、我々にはすべてが満たされる。罪人で殺人者であったわたしが、イエスが言う他の人とされるのである。これが罪赦されたキリスト者である。

我々は、神の時にすべてを満たされた者。我々は、神の時に介入された者。我々は、神の時に従わせられた者。神の時カイロスは常に我々のそばにある。我々の罪のただ中にある。我々の人生の日々の中で、神はカイロスを常に発動させておられる。従って、我々はいつでもカイロスに自らを開くことが可能なのである。ある決められた時にしか悔い改めることができないのではない。人生にたった一度しか悔い改めの機会がないとしたら、我々は誰でも逃してしまうであろう。ところが、カイロスは常にあるのだ。我々の時の中に常に神は臨在しておられる。常に来てい給う。常にご自身を開いてい給う。それが神である。そして、それこそがカイロス神の時が我々を包んでいるということなのである。

神の時に、我々は来たり給う恵みを受け取る。神の時に、我々はすべてに満たされる。神の時に、我々は神のものとして生かされる。如何なる罪人であろうとも生かされる。自分自身の罪を見る罪人が、生かされる。神の言に、神の意志に、神の時に生かされる。それはすべてを所有する者としてではなく、すべてを使用する者として生かされることである。農夫たちが所有を求めて最後には殺害に陥ったように、所有が我々を悪へと駆り立てる。ぶどう園のすべてを所有するのは神であることを受け入れること。ぶどう園の使用を許されているだけだと受け入れること。それが、イエスの十字架が指し示すキリスト者の生き方である。所有を離れ、使用において、すべてを使うことができる幸いを生きる。イエスは何も所有せず、父なる神のもとにすべてを持って生きた。十字架の上ですべてをはぎ取られてもなお、すべてが充填されている神の時カイロスがあるのだ。カイロスに従う者でありますように。

祈ります。

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