「隠された現在」

2016年3月20日(枝の主日)

ルカによる福音書19章28節~48節

 

「もし、認識していたなら、この日のうちに、あなたもまた、平和に向かう事柄を。」とイエスはエルサレムについて嘆いて言う。さらに言う。「しかし、今それは隠されている、あなたの目から。」と。現在ある事柄が隠されていると言うのだ。目の前にあるのに、隠されている。これはどういうことであろうか。エルサレムを擬人化して語っている言葉ではあるが、目の前に見えていながら隠されていると言う。見えていながら、見ていない。隠された現在とは、見ていない現在なのか。それは、我々の目が曇っているということであろうか。曇っていることが隠されていることなのだろうか。

我々人間には現在は常に隠されているではないか。目の前に見ながらもそのただ中では現在行っていることが分からないことがある。我々は現在のただ中で振り回され、翻弄されているだけ。闇雲に動くが、どこに向かっているのかは分からない。対症療法的に動くが、どうなるのかを考える暇もなく、物事は動いていく。それ故に、我々は何かを考えて取り組んでいるとは言い難い。むしろ、起こってくる出来事がわたしを巻き込んで動いていくのである。

時代の風潮があり、誰もが当たり前のようにその時代の流れの中で生きている。過去を振り返れば、どうしてあのようなことが良かったのか分からないと思えることがある。それでも、そのときは良かったのだ。このような中で、我々は自分自身の現在を認めているのであろうか。我々自身の現在は我々自身がどのような思考を持って取り組んでいるかということに関わりなく動いていく。そうして、いつの間にか我々は周りに振り回され、動かされ、周りと同じことを選択させられていくのである。

イエスのエルサレム入城を歓迎した者たちも同じように時代の流れに動かされていたのだ。それを止めようとするファリサイ派の人たちも何もできなかった。イエスも言う。「この人たちが沈黙すれば、石たちが叫ぶであろう。」と。それゆえに、群衆の叫びも誰も止めることはできないのだ。止めても石たちが叫ぶのだ。無機物さえも叫ぶ叫び。意志を持たなくとも叫ぶ叫び。これは、根源的なものなのか、あるいは意味のない叫びか。どちらでもあり得るのだ。意味のないことと根源的なことは同じように見える。何故なら、意味があるから叫ぶわけではなく、叫ばざるを得ないから叫ぶということは、石であっても叫ぶものとされる。根源的な叫びも同じようである。

根源的なものを抜きにして、意味を求めて叫ぶならば、それは主体的な叫びではなく、誰かに強いられて叫ばされているのである。この叫びを止めることも同じである。叫びが主体的であるならば、それは意味があるから叫ぶのではなく、叫ばざるを得ないがゆえに叫ぶのだ。それは意味を求める人々からは隠された現在である。意味があることが起こると考えること自体に問題がある。自分にとって意味があると思えることが起こるべきであるという考えに問題がある。そこにおいて、我々はこの世界を自らの理解できる意味に解消してしまう。こうして、自分の支配する世界にしようとするのが罪人である我々人間なのだ。このような罪人には隠された現在がある。しかし、周りに、時代に振り回されることで良いのか。それでは自らの責任において、引き受けて生きているとは言い難いではないか。それでは罪の自覚もないままに、ただ動いていくだけではないか。それが良いとでも言うのであろうか。しかし、起こっている事柄の意味を求めることは、意味があるから起こるはずだという思考に陥る。これまた、すべてを自らの理解できる意味に解消しようとする人間的な罪の結果である。

隠された現在は目の前にあるにも関わらず、自分にとって意味がないがゆえに、認められない。また、意味を求めることで目の前にあることを認められない。いずれにしても罪人には認められない。それが「平和に向かう事柄」と言われているものである。「平和に向かう事柄」はこの世において意味があるからあるのではない。平和とは神との関係の正常化であり、神の完全性のうちに生かされていることである。この完全性としての平和を認めることは信仰において可能なことである。この世の理性ではなく、信仰的理性において認識するのが神の平和シャロームである。神との平和シャロームは意味があるからあるのではない。神が神であることがシャローム平和なのである。それは神における絶対的必然性である。神の主体性の中で起こることである。神の主体性の中で起こることが現在である。如何なることであろうとも、神の主体性の中で起こっている。ただそれだけなのだ。そこに罪人が意味を求める。そして、自ら神になろうとしてしまうのである。

では、流されていけば良いのか。流行に乗っていけば良いのか。こうして、行き着く先に行くので良いのか。良くも悪くも、我々は行き着くのである。罪人であるが故に、行き着くのである。最終的な裁きに行き着くのである。振り回され、流されて、行き着いてしまうのだ、究極的な裁きに。それが、我々人間の罪の根源的姿である。罪の根源的姿において、生きざるを得ない我々の哀れさである。この哀れさをイエスは嘆いておられるのである。

石が叫ぶこともエルサレムが平和に向かう事柄を認識しないことも同じ次元に属する隠された現在である。この隠された現在を認めるとしても、流されていくのが罪人である。イエスの十字架刑決定においても、イエスに罪は無いと思いながらも、ピラトは群衆に反対することができなかったのだから。反対することができなかった時点で、見えていても、見ないようにした現在がある。これまた隠された現在。ピラト自身が見ないようにした現在である。いずれにしても、我々は流されていく。流されていくとき、隠された現在がある。

神の家である神殿は祈りの家であることが真実である。しかし、それを強盗の巣にしているにも関わらず、彼らはそう認識していない。ここにも隠された現在がある。祈りの家となっていないことが隠されている。真実が隠されている。自分たちで見ないようにしている。自分たちの利益のために真実を見ないようにしている。これは隠れなきことを隠していることであるが、隠していること自体が自分自身に隠されて見えないのである。しかし、隠された現在は、現れざるを得ない。いずれ現れる。真実はいずれ現れるのだ。真実、真理は隠れなきことだからである。

意味を求めようと、時代に流されようと、我々人間は現在を見ていない。現在の中で働いている神の働きを見ていない。隠された現在があることすら見えない。自分自身が見ないようにしていることも見えない。我々罪人の行いは、すべて盲目である。良きにつけ悪しきにつけ盲目である。我々は隠された現在から解放されることはないのだ、罪人である限り。この罪人である我々すべての罪をイエスは引き受けてくださった。エルサレムに迎える群衆も、批判するファリサイ派も、神殿で商売する者たちも、皆隠された現在を生きている。自分の利益だけを求めて生きている。自分に都合の良い現実だけを生きている。賢く生きているつもりになっている。我々人間の業はすべて悪、すべて罪。この認識に啓かれるとき、我々は信仰のうちにあって生かされている自分を知る。この世の罪も悪もすべてを引き受け給うたイエスに従う者は、イエスと同じように罪と悪を引き受ける。それが悪であること、罪であることを知って、引き受ける。イエスが引き受け給い、十字架に滅ぼし給うた現在があるが故に、すべてを引き受ける。真実にキリスト者である者は隠された現在を認めて引き受け生きるキリストに従う。隠された現在は、人間的な悪の中にある神の引き受けである。神の忍耐である。神の憐れみである。イエスの十字架への道行きは隠された現在なのである。

神の忍耐と憐れみの故に、イエスはすべてを引き受けて歩まれた。その果てに十字架が立っている。十字架から溢れる恵みとしての聖餐に共に与り、隠された現在を神の憐れみとして謙虚に生きていく者でありますように。キリストの十字架を見上げて。

祈ります。

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