「生きざるを得ず」

2016年3月23日(聖週水曜日礼拝)

マタイによる福音書26章14節~25節

 

「彼を引き渡しているユダが答えて言った。わたしではないですよね、先生。彼は彼に言う。あなたが言った。」と、聖書は語っている。ユダだけが「先生」と言う。他の弟子たちは「主よ」と言う。この違いは明らかである。「主よ」との呼びかけは、自らのすべてを支配する主人という意味であり、さらには神を意味する呼びかけである。しかし、「先生」は単なる先生であり、人間的な教師としてイエスを見ている言葉である。この「先生」との呼びかけにはユダのイエスを見限った思いが現れている。他の弟子たちの言葉には、あくまで自分たちを支配し、導く主としての認識に留まる心が現れている。この違いは大きい。

ユダにとって、イエスはもはや単なる人間でしかない。先生であるから、ユダを支配しているわけではない。導いてくれるのが先生ではあるが、支配することはない。それゆえに、ユダはイエスから離れている自分を感じているのである。このユダの言葉は、イエスを引き渡していることから来る。イエスをすでに引き渡しているユダだから、イエスに対する見方は冷めた見方となっている。しかし、このユダの行為、ユダの思いが起こるのは、イエスが言うように聖書に書かれている通りなのである。それは、神の言が実現することである。ユダ自身がイエスの言を聞いて反応する以前に自らが行動していたこと、それが聖書が語っていた通りのことだったと言うことなのである。聖書に書かれていることはユダによる引き渡しを決定している。ユダが引き渡しを決めることは聖書の言葉、神の言の現れなのである。

そうであれば、ユダに責任がないのかと言えば、そうではない。ユダが引き渡す思いに支配されたということ自体が、ユダが神の言に従わない者であったということである。そして、神の言が従わない者を通して実現してしまうのである。そう考えれば、結果的にユダに責任がないのではなく、むしろ神の言のように生きてしまうのはユダ自身の罪深い姿そのものなのである。そこから抜け出すことができなかったのだ。ユダが抜け出せなかったことも神の意志の絶対的必然性によって生じている。この生じた事態は、神がそのように語っていたのではあっても、語られたとおりに動いてしまうところに、ユダの罪深い意志が働いているのである。

ユダは、自らの罪深い意志を働かせないならば、引き渡すことはなかったであろう。しかし、このように仮定することはどうしたらユダが引き渡さなかっただろうかと推論することになる。推論は推論であり、そこに現実はない。ただ、こうだったならばという仮定があるだけである。仮定は仮定であり、現実ではない。それゆえに、仮定は起こらなかったのであり、ユダが自分の主体においてイエスを引き渡したということは現実なのである。この現実を受け入れることこそが、我々罪人が引き受けなければならないことである。

それゆえに、イエスは言うのだ、ユダに。「あなたが言った」と。これは他の弟子たちには言われていない。ユダだけに言われている言葉である。どうしてイエスはこのように言ったのか。この言葉の意味は何か。「あなたが言った」とは現実を語っている言葉である。ユダがそう言ったのだ。「わたしではないですよね、先生。」と。それはユダが言ったことであり、他の弟子たちが言ったことではない。ユダはあくまで「先生」と言ったのである。この「先生」こそ、ユダが引き渡した人間イエスなのである。ユダはすでに引き渡していた。その上で、「わたしではないですよね。」と言うのである。この誤魔化しを「あなたが言った。」とイエスは言うのか。しかし、誤魔化しているとは言わないのは何故か。

イエスはユダが自らの行為を指摘されたことを認めて、誤魔化さず、罪を認めることを願っているのであろうか。いや、ユダがそうせざるを得ないところに生きていたが故に、ユダが生まれなかったならば良かったと言うのだ。生まれてしまっているユダが必然的にイエスを引き渡したとイエスは言うのである。これは変更不能なのである。誰も変えることができない現実なのである。それでも、そこでユダが気付いて、悔い改めるならば、救われていたであろうと考えたくなる。我々がこのように考えたくなるのは、自分のためである。もし、自分がユダの立場になったならば、悔い改めて赦されたいと願うからである。何とかして、自分が救われる道を設定しておきたいからである。それがユダが銀貨三十枚によるイエス引き渡しの道を設定しておいたことなのである。ユダは自分が逃れる道、救われる道を確保するために、イエスの引き渡しを設定したのだ。それが現実である。

ユダのその哀れさをイエスは「呪われよ」と言うのである。「不幸だ」と訳されているが、これはイエスの悲嘆の言葉であり、ウーアイというギリシア語である。このうめきに似た言葉が、イエスの口から発せられた。ユダの変えようのない現実を認識して、呪われよと言ったのだ。呪われよとは、呪われているということである。呪われているが故に、ユダはイエスを引き渡さざるを得ないのである。これはユダが悔い改めることができなかったということではあるが、悔い改める可能性が無かったのかと問うてみても虚しい。ユダは必然的に呪われた者なのである。イエスを引き渡さざるを得なかったのだ、自分の罪ゆえに。自分の思いゆえに、人間的思いが勝っているのがユダなのである。

ユダの思いが変更不能であるがゆえに、イエスは十字架に架かったのだ。十字架に架かったがゆえに、復活もあるのだ。だからと言って、ユダがそれゆえに赦されることはない。ただ、ユダは生きざるを得ず、生きていく過程においてイエスを引き渡すことを実行している。この哀れなユダに同情することは可能であるが、同情したところでイエスの十字架がなくなることはない。むしろ、同情すること自体が虚しい。我々はユダに同情するのではなく、自分自身を省みるべきである。しかも、ユダと同じように罪に支配されて生きざるを得ない自分自身を哀れむべきなのである。そして、救いを求めるべきなのである。しかし、これとても自分の力でそうできるということではない。神の力を受け取る者のみに可能である。みことばと共に来たる聖霊があなたを悔い改めに導くであろう。あなた自身が、神の言を聞いて、ユダの姿を自分の哀れさと認識するのは、聖霊が来たるときである。聖霊がわたしを造り替えるときである。神の言自体が聖霊の働きの場となっている。悔い改める者が悔い改める。ユダは悔い改めなった。ただそれだけなのだ。ユダも救われるのかとの問いを持つとしても、誰も答えられないであろう。神のご意志がなければ、悔い改めに導かれることはないということが真実なのである。

我々が今日のみことばを聞いて、悔い改めに導かれるかどうかは我々の手の内にはない。神の言のうちにある神の意志の絶対的必然性なのである。我々は、自分から悔い改めることができないことを認めるのであれば、神の力、神の恵み、神の義を祈り求めるのである。実現したときには神に感謝するのである。あなたが、今自らを省みているならば、幸いである。省みることができないならば、それも神のご意志である。しかし、省みない者は、省みることができないとも認識することはできないのだから、永遠に悔い改めることはない。

我々は今日、自らを省みて、畏れをもって神の前にひれ伏す。ひれ伏す者は、自らの哀れさを思い、神に祈る。神に祈る者は、神の支配に自らを委ねる。ここには倫理はない。そのように生きている者がそのように生かされていることを神に感謝するだけである。そのように生きていない者は神に感謝することなく、悔い改めることもない。ただそれだけである。この聖なる週、我々は神の必然性の中を生きている者として、神の力を畏れ、神の前にひれ伏し、神に感謝を献げる者でありますように。すべては御手の中の出来事。神の言に従った出来事。キリストの十字架を見上げつつ、歩み続けよう、聖なる週を、生きざるを得ないわたしの罪を認めつつ。

祈ります。

Comments are closed.