「知と実行」

2016年3月24日(聖週木曜日礼拝)

ヨハネによる福音書13章1節~17節

 

「もし、このことをあなたがたが知っているならば、あなたがたは幸いな者たちである。もし、あなたがたが実行するならば、そのことを。」とイエスは言う。弟子たちが知ることと行うことは同じことであり、幸いな者たちである現実は知と実行において生きられると言うのである。

知ることから、実行は生まれる。知らないでは実行することはできない。行いが先にあるのではなく、知ることが先にあり、行いは知ることを通してこそ実現する。それは当然である。知は行いの源泉であるが、行いは知の源泉ではない。知の源泉が行いであるならば、闇雲に行って知が来たると言えるであろう。しかし、そうではない。知は先にある。先にある知が行いを生む。行いが生まれるために、知が与えられる。我々自身から知は生じない。それゆえに、我々は与えられた知によって動かされているとも言えるであろう。この知は誰がどのように与えるのであろうか。我々の認識する知は誰の知なのか。

それはイエスの知である。イエスが与える知である。イエスが促す生き方である。それをイエスは「型」と言っている。模範という言葉は型であり、型を知ることで型を行うことができるのである。この型を与えたのはイエスである。イエスが与えた型は、弟子たちを実行へと導く型。弟子たちに与えられた知は、型としての知。実行するには、型を与えたお方イエスの心を受け取ることが必要である。この心を受け取ることこそがイエスが言う知、知るということなのである。

イエスは、足を洗うという行為を型として与えた。この型は、イエスが知ってほしい知から生じている。その知はイエスの愛であり、イエスを愛する父なる神の愛である。神の愛に基づいて、イエスはご自分の弟子たちを愛し、型を与えた。与えた型に込められたイエスの愛を知ってほしいとイエスは言うのだ。知って、実行することで、あなたがたは幸いな者たちであると言う。それゆえに、行為の源泉を知るということが重要になってくる。何故なら、行為を生み出すものがなければ、行為自体は空虚な型でしかないからである。単に型を真似ても、型があるだけであり、そこに型の源泉である意志は無い。それゆえに、型だけを守っていてもイエスの意志を実行することは無いのである。

では、心があれば良いのか。心があれば、その型を行わないとしても良いのだろうか。いや、心があるならば型は実行されるのである。その型を知っているならば、行為が生まれるのである。その型の心を持っているならば、心は現れるのである。それがイエスが言う知と実行である。

知に基づいて実行されるイエスの意志。それが、互いに愛し合うことであり、互いに足を洗い合うことだと言われている。ここで示された足を洗うこととしてのイエスの愛は、すぐに汚れてしまう足を洗うという行為が、食卓の上の事柄である聖餐の意味を語っているということなのである。足を洗うイエスの意志は、弟子たちが聖餐を足を洗う出来事として受け取り続けることを願う意志なのである。罪赦された罪人が常に聖餐に与ることで、汚れやすい魂が洗われ続けることになるということである。そうして、週ごとに汚れやすい魂を洗っていただいた我々が、互いの足を洗い合うように生きることをイエスは願っているのである。

我々が週ごとに足を洗われている存在であることを覚えることによって、自らの罪深さを思い、自らと同じ隣人の罪を自分のこととして受け止め、共に生きること。これが、イエスが今日弟子たちに求めておられることであり、我々キリスト者に求めておられることである。

このように生きてほしいと願われたイエスは、弟子たちとの関わりを持ち続けることを願われた。罪赦された者がイエスとの関わりから解かれるわけではない。むしろ、常に、いつも、罪赦されるようにと祈り続けるのがキリスト者なのである。罪赦された罪人は、赦されたとは言え、罪人であることは失われていないからである。最終的な世界の再創造が行われるときまで、我々は罪赦された罪人として生きるのである。それゆえに、我々は完全に善い人間になったと思い込んではならない。我々は不完全な人間なのである。不完全な罪人なのである。常に足が汚れてしまう人間なのである。このことをよくよく弁えていなければならない。そうで無ければ、我々はいつでも罪に支配されてしまうであろう。

主人と僕の関係、遣わした者と遣わされた者の関係。これらは、変わりようがない。僕は主人よりも大きくはない。遣わされた者は遣わした者よりも大きくはない。従って、僕は主人の世界の中でこそ僕として生きている。遣わされた者も遣わした者の世界の中で遣わされた者として生きている。主人に規定され、遣わした者に規定されている世界の中でこそ、我々は生きていることが可能なのである。主人の命令の中で生きるということは、主人の世界の中で生きることである。その世界を実現している知の中で生きることである。それゆえに、その世界が実現している知を知ってこそ、その世界の原理である知を生きることができるのである。この知を認識することによって実行される行為が形式だけのものではなく、真実に内実を伴ったものとして生きるのだと、イエスは言うのである。

我々は、イエスの言う世界の知の中で生きるとき、イエスの者、キリストの者として生きる。キリスト者の生はイエスの知の世界において生きる生である。この世界は、十字架の言の世界。十字架の言としての知の世界。イエスが生きている世界の知なのである。この世界で生きるには、イエスの知を知る必要がある。知った知が我々を包み、実行させる知となる。イエスの十字架の知が我々の上に実行されている神の知恵である。それはこの世の知においては愚かなものであるが、滅び行くものではなく、永遠へと導く知である。

この知をイエスは型として与え、その意志を型に込められた。意志が込められた型は、イエスが生きる意志であり、我々を生かす意志である。父なる神の愛であり、イエスの愛である。我々を生かしたいと願う意志が神の愛、イエスの愛である。それゆえに、我々がこの意志を受け取り、生きることによって、我々は如何なることにおいてもイエスと共に生きる。イエスとの関わりを失うことなく生きる。イエスはこの関わりを失わないようにと願ってくださったのだ。

聖餐の食卓の下において、イエスは食卓の上の出来事を支えておられる。食卓の上は、食卓の下に支えられ、内実を与えられ、我々を生かす出来事、聖餐となっていく。

聖なる意志が聖餐を支え、仕えるイエスが聖餐を生かす。イエスの意志が聖餐において我々に与えられる。与えられたイエスの意志が、我々を仕える者としてくださる。仕えてくださったイエスの意志が、互いに足を洗い合うことへと我々を導いてくださる。聖なる食卓を生かしているイエスの意志は、我々をイエスの意志に従って生きる者とする意志である。それゆえに、聖餐を受ける我々は、イエスに足を洗われた者として生きることになるのである。イエスの意志が、我々のうちに入り来たり、我々を支配し、イエスの知の中で生きる者としてくださる。イエスの知を受けて、我々が実行する者として生きていくのである。

聖餐において、与えられるイエスの意志が我々の意志となり、我々がキリストの者として生きることができますように。罪深いわたしを自覚しつつ、常に足を洗っていただく者として、イエスに従って行こう。聖なる食卓において、我々は罪を洗われ、キリスト者としての生を生きていく。十字架の知がわたしの知となり、わたしが十字架の知を実行する者となっていくように、イエスは我々の足を洗ってくださっている。週ごとに与るイエスの意志の中で、我々はイエスの意志である知を生きる者となっていくのである。終わりの日を望み見て、十字架の主の世界の中で生きていこう。キリストの知が実行される生を生きていこう。聖なる週の歩みが、キリストの洗足に従って実行されていきますように。

祈ります。

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