「アポリアの向こうに」

2016年3月27日(復活祭礼拝)

ルカによる福音書24章1節~12節

 

「彼らが行き詰まることにおいて、それは生じた。そして、見よ、二人の男たちがそばに立った、輝く衣のうちに。」と語られている。「行き詰まる」とは「途方に暮れる」ことであるが、それはそれ以上進めないことであり、道がないことである。これを哲学用語でアポリアと言う。アポリアは、論理的に探求していた道をそれ以上に進めなくなることである。それゆえに、どうしたら良いのか分からず「途方に暮れる」、筋道が分からないということになるのである。このアポリアに陥ったのだ、復活の朝、イエスに従ってきた女性たちが。

何故、アポリアに陥ったのか。イエスの体を見つけることができなかったからである。三日前に死んだイエスを葬った墓なのに、そこにイエスの体を見つけることができない。それゆえに、彼女たちはアポリアに陥った。アポリアは道がないことであるがゆえに、思考していた道が行き詰まって、どこに行くこともできない状態に陥ったということである。我々の思考においては、死んだ者の体は葬った墓にあるのは当然である。そこに体を横たえたことを見ているのだから。その体に香油を塗るために、安息日が明けた朝早くに、墓に来た女性たち。彼女らの目的はイエスの体に香油を塗ることであった。そのために、香油を準備したのだ。香油を買い求めたのだ。それなのに、イエスの体を見つけられなかった。見つけられないのだから、どうにもしようがない。道があると思っていたところに道がないのだ。彼女たちはこれ以上どこに行くこともできず、途方に暮れていた。アポリアに支配されていた。アポリアが彼女たちの行動を制止していたのだ。

ところが、このアポリアに陥った女性たちのそばに二人の男たちが立つ。アポリアに陥り、思考停止になったとき、二人の男たちがそばに立つ。これが、復活の朝の出来事であった。道なきところに立った二人の男たち。彼らは天使なのかどうかも分からないまま、女性たちが彼らの言葉を聞く。「何故、あなたがたは探しているのか、生きている者を死者たちと共に。」と。生きている者は死者たちと共に探しても見つかることはないのは当たり前である。女性たちがアポリアに陥ったのは、生きている者を死者たちと共に探していたからであると、二人の男たちは言うのだ。この論理はアポリアではない。当たり前のことである。それなのに、彼女たちがアポリアに陥ったのは、生きている者を死んでいると思って、死者たちと共に探していたからである。しかし、イエスは死んだのだ、十字架の上で。それゆえに、墓に葬った。彼女たちはそれを見ていた。その墓に来てみると、イエスの体を見つけることができなかった。彼女たちがアポリアに陥ったのは、イエスを死んだと認識したからである。それゆえに、彼女たちは墓にイエスの体を探して、アポリアに陥ったのだ。彼らの思考はそこで停止した。道が見つからないのだから、思考停止するしかない。ところが、現れた二人の男たちが言う言葉によれば、彼女たちがアポリアに陥ったのは、イエスの体を見つけられなかったということとイエスが死んだということにこだわったからである。彼女たちは、イエスの体を見つけられなかった時点で、イエスが死んだことを否定しなければならなかったのだ。そうすれば、アポリアに陥ることはなかった。しかし、彼女たちはイエスの死を見ているのだ。見ていることを否定することは我々人間にはできないものである。

我々は自分が見たことを確実だと思う。しかし、我々の視覚は我々の思考に左右されてしまうものである。見えていても見ないということがある。それは我々が見えていることを受け取っていないからである。受け取ることは、自分の思考を先にするのではなく、見えていることを先にすることなのである。見えていることを認めた後、思考を働かせれば良いのだ。しかし、我々は自分の思考を優先させ、自分の思考に合致することだけを受け入れようとする。あるいは、見えているものがあるにも関わらず、自分の思考に合致することだけを受け入れ、見えているものを否定することもある。そこにあるにも関わらず、ないと考えるのである。我々の視覚は我々の思考によって狭められているのだ。

復活の朝、墓に行った女性たちの視覚もこのように狭められていた。それゆえにアポリアに陥ったのである。彼らが見たことは、イエスの体がないということである。しかし、自らの見つけるはずだという考えが否定されたとき、我々は思考の方向をあり得べき方向に転換するものである。それなのに、復活の朝の女性たちはそれができなかった。それは当然なのである。イエスが死んだことを確認し、横たえたことを確認したのだから。イエスの体を見つけなかったということからイエスの復活を誰でも思考するとは言えない。ある人は、誰かがイエスの体を持ち去ったと考えるであろう。しかし、これもありそうもないことである。誰が好き好んで、死体を持ち帰るであろうか。あるいは、イエスが実は死んではいなくて、墓に葬られた後、息を吹き返して墓から出て行ったと考える人もいるであろう。ところが、これも可能ではない。何故なら、死に瀕していた者が、墓の前の大きな石を転がすことはできないであろうから。這って動く程度が関の山なのだから。従って、イエスの体が墓から消えてしまったということだけが確定される。確定された事実から、導き出されることは、我々の自然的理性によっては道がないアポリアなのである。

我々の自然的理性に従ってはアポリアに陥るしかない出来事が生じたのだ、復活の朝に。アポリアに陥ることなく通り抜ける道は、二人の男たちが指し示す道、イエスの復活である。しかし、この復活こそがアポリアではないのか。自然的理性にとってはアポリアである。死んだ人間が復活する、甦るということはあり得ないことだからである。しかし、あり得ないことは、起こり得ないと言えるのであろうか。言えないのである。今まで、あり得ないと言われていたことが確認されるということがあるのだ。自然的世界において、未だにそうである。あり得ないことがあり得ると確認されるということは、見えているのに見ていなかったということが確認されることなのである。しかし、未だ自然的世界においては、イエス以外の者の復活は確認されてはいない。それでもなお、イエスの体が見つからないということは確認されている。墓にイエスの体はなかった。この事実に自然的理性は答えを与えることはできない。アポリアに陥るしかないのである。

ところが、アポリアに陥った女性たちに二人の男たちが開く思考の道は、「何故、あなたがたは探しているのか、生きている者を、死者たちと共に」という道である。生きている者を死者たちと共に探すがゆえにアポリアに陥るのである。生きている者は生きている者と共に探すべきなのである。この道を女性たちに開いた二人の男たちは、アポリア回避の道を示したのだ。それは、一端死んだが生きているという新たなアポリアを生むのである。これでは、アポリアの回避にアポリアで応じることになる。それゆえに、イエスの復活は自然的理性では受け入れ不能なのである。これを受け入れるには、信仰的理性が必要である。

ところが、そこに至るには、アポリアに陥る必要があるのだ。アポリアに陥ることを通ってこそ、自然的理性を超えた信仰的理性に至るのだ。それは盲信ということではなく、アポリアをアポリアとしてありのままに受け入れることである。我々人間には理解不能なこと、相矛盾することを、全体として受け入れることである。そのとき、我々は理性的確認でもなく、盲目的思い込みでもなく、信仰的理性によって冷静に受け入れるのである。アポリアの向こうにある統合された世界を。イエスの復活の世界は、我々の自然的世界では道のないアポリアである。しかし、聖霊による信仰にとっては、統合された世界、すべてを包む世界、神の愛の世界なのである。アポリアの向こうにある世界が神の愛の世界である。この世界が今日開かれた。アポリアの向こうにある世界が開かれた。入ってみよう、新たな世界に。あるのに見ていなかった世界に。主の復活の世界に。

イースターおめでとうございます。

祈ります。

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