「完成のために」

2016年3月25日(聖週金曜日礼拝)

ヨハネによる福音書19章17節~30節

 

「聖書が完成されるために、彼は言う、わたしは渇く」と語られている。イエスは聖書の完成のために行動する。他の人間たちは、自らの思いに従って行動しているが、それによって聖書が満たされることになる。反対にイエスは自らの意志に反して十字架に架けられているが、自らの意図を持って語る言葉で聖書が完成されるように働く。この違いは、イエスがすべてを了解して引き受けているがゆえに起こっている。他の人たちはすべてを了解せず、そのときの自分の思いに従って行動し、聖書が満たされることになる。満たそうとする意図がなく満たされてしまう人間と彼らの行為を引き受けながらも聖書を完成させるために働くイエス。ここには、人間の愚かさを引き受けることが聖書の完成に至るということが示されている。人間の愚かさは自分のために行っていても、結果的に聖書を満たしてしまうのであるが、イエスは人間のすべてを引き受けて聖書を完成するのである。ここには、罪によって聖書を満たす人間がいる。そして、人間の罪を引き受けて、聖書を完成へと導くイエスがいる。イエスはあくまで聖書の完成を目指して生きている。イエスの生は聖書の完成へと向かっている。人間は自分の世界を自分の思いで満たしつつ、神の言葉である聖書を満たしてしまうのである。

我々は如何に罪深くとも聖書を満たしてしまうが、それは善きもので満たすのではない。むしろ、悪しき罪で満たす。聖書に満たされている人間の罪が究極まで満たされていくことで、「すべてが完成されてしまっている」とイエスが認めたことが真実なのである。人間の恣意的罪の行為は、自分の世界を満たしているようでいて、聖書を満たしている。聖書が語る人間の真実、人間の罪の真実を満たしているのである。それらすべてが完成してしまっていること、終極まで達してしまっていることをイエスは認識して、「わたしは渇く」と言った。これによって、イエスが引き受けた人間の罪の真実が完成される。聖書の真実が完成される。聖書が語ってきた人間の罪が真実であることが完成される。イエスの十字架において完成される。これによって、イエスの十字架が神の真実を語り、人間の罪を語っていることが明らかとなる。「成し遂げられた」と訳されている言葉はイエスの死を意味するのではあるが、聖書そのものが完成するのであれば、イエスは死をもって完成させたのである。完成された聖書が命の書であるがゆえに、イエスの死は命の完成である。

イエスの十字架における完成は、神の創造である命の完成である。我々の罪すべてが満たされた結果、神の命が完成する。罪の満たしと命の完成、これがイエスの十字架における完成なのである。我々の罪が満たされているとしても、神の命は完成する。これはどういうことであろうか。如何に罪深い世界であろうとも神の命は完成せざるを得ない。神の言は完成せざるを得ない。それが真実であり、イエスが十字架の上で見た神の意志の世界である。

イエスが死んだとしても神の意志が完成している。神の言が完成している。それゆえに、イエスは最終的な言葉を語って、聖書を完成させた。「わたしは渇く」と完成させた。イエスが渇く。何もなくなる。こうして完成された聖書。すべてを失って、完成された聖書。イエスの失われたすべてにおいて完成されたものが我々の新約聖書なのである。イエスの十字架において完成され、旧約聖書と新約聖書として完成しているのである。

聖書がイエスの渇き、神の渇きによって完成された。聖書は完成されなければならないがゆえに、完成された。これは必然的にそうなっているのである。神ご自身の渇き、神ご自身の自己贈与によって完成されたのである。神ご自身の言が神ご自身の自己贈与によって完成されたのである。イエスは完成のために十字架を引き受けられた。そうでなければ、完成しなかったのである。この世界は神の世界であり、神の言の完成の世界として定められていた。その世界を破壊する罪が入り込んできたがゆえに、破壊への道を邁進し続けていた世界。その破壊を神ご自身が引き受けることによって、完成がもたらされる。神が自己贈与することによって、完成がもたらされる世界。神の言の世界の完成。十字架によって完成する世界。すべてを失ったイエスにおいて、この世の破壊がすべて引き受けられている。破壊はもはや破壊する力を奪われている。イエスが終極に達することによって破壊の力がイエスに引き受けられたからである。

イエスの下着を断片にすることができなかった兵士たちの行為は、必然的に継ぎ目のない世界が保持されることを示している。彼らは引き裂くことができなかった。人間は神の一枚織りの世界を破壊することができなかった。この世界は神の意志、神の言という一枚織りの世界であったことが明らかになった。人間がその世界を引き裂いているかに思えた世界が、実は一枚織りの世界だった。引き裂いてもなお、破壊できない世界だった。破壊する行為が力を奮っているかに思えてもなお、破壊できない世界だった。十字架において完成した世界は一枚織りの世界。イエスの最後の下着の世界。奪われてもなお、引き裂くことができない世界。イエスはその世界が完成されていることを十字架の上で確定した。人間の罪によって破壊されているかに思える世界が完成されている世界として立ち現れてきた。イエスの目はその世界の完成を見たのだ。それゆえに、最後の言葉「わたしは渇く」という言葉を発して、完成を完了したイエス。すべてを奪われて、完成したのは、イエスが見ていた世界である。

イエスが見ていたのは、聖書、書かれているものの世界。神が語られた世界。神の言の世界。神が「あれ」と言われた世界。わたしがあるところのわたしがある世界。神があるところの神である世界。イエスがあるところのイエスである世界。それは破壊する世界ではなく、破壊を引き受けつつ、完成する世界である。

我々人間は破壊する世界を作る。神は破壊を引き受けて、完成へと至る。神の言は完成する言である。それでもなお、我々は罪深く破壊を繰り返す。破壊を繰り返す罪の世界は、破壊を引き受ける神の世界に包まれ、完成へと包まれていく。人間は世界の破壊を完成するかのようであるが、完成することはできない。神の言、神の意志だけが完成する。破壊する世界ではなく、完成する世界を完成する。

完成するために「渇く」と言われたイエスは、破壊する世界を働かなくし、完成する神の世界を完成する。こうして、我々の世界は人間的な世界としては破壊されても神の世界として完成する。イエスの十字架において完成する。この完成がイエスが神の意志を受け取って生きた世界。それゆえに、イエスは十字架の上で神の世界の完成のために、「霊を引き渡した」のである。「息を引き取った」と訳されている言葉は、「彼は霊を引き渡した」が原文である。イエスは神に霊を引き渡し、すべてを神に委ねて、死を死んだのだ。人間的死を死んで、神的生を生きた。神の完成を生きた。

我々は今日、イエスの死を見るのではない。イエスにおける完成を見る。十字架における完成を見る。十字架がすべての完成であることを見る。イエスは神の意志に従い、神の言の完成のためにすべてを献げた。イエスが献げたすべてが我々を破壊から解放し、神の意志の完成の世界、神の言の完成の世界に入れてくださったのだ。

何もなくなったイエスからすべてが完成する。我々人間のすべての悪と罪がイエスと共に死に、イエスが完成した世界に我々が生きることになる。この世界の完成が今日始まった。十字架は終わりではなく、終極に達した完成なのである。完成によって、すべては神のものとして新たに生き始めた。死は終わりではなく完成である。人間的なものが働かなくされて、神的なものがすべてとなる完成である。イエスの死を通して来たる完成の日、復活の日を共に喜ぶために、イエスは十字架を耐えてくださった。キリストの十字架にこそ、我らの命がある。我らの完成がある。「わたしは渇く」と語られたイエスが我らの主、我らの神、わたしの救い主。

祈ります。

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