「希望の覚醒」

2016年4月3日(復活後第1主日)

ルカによる福音書24章13節~35節

 

「しかし、彼らの目が掴まれていた、彼を認識しないように。」と言われている。「遮られていた」という言葉は「掴まれていた」が原意である。何かに掴まれていたので、はっきりと認識することができなかったということである。何に掴まれ、遮られていたのだろうか。罪である。エマオに向かう二人の弟子たちの目は罪によって掴まれて、イエスをイエスと認識することができなかったのである。罪は、我々が正しく認識することを妨げている。妨げられた我々の目は、目の前にあるものをありのままに認識できないように掴まれているのである。罪は我々が正しく認識しては困るので、我々の目を掴まえている。罪の意志に従った認識へと導くために。罪は悪と同じであり、神に背いている意志である。この悪しき、罪深き意志が我々の目を掴まえ、神に背いた方向へと認識するようにさせている。エマオに向かう二人の弟子たち、そしてエルサレムに残っている弟子たちはすべて、罪に掴まれていたのだ。それゆえに、墓に行っても、ペトロは空の墓を見て、驚くだけなのである。

罪に掴まれていることは、二人の弟子たちが言う言葉にも現れている。「わたしたちは、希望を持っていました、あの方がイスラエルを解放してくださるお方であると。」と二人の弟子たちは、彼らが出会った出来事について語る。しかし、その言葉は過去である。「希望を持っていた」という過去を、彼らに伴うイエスに語るのだ。希望エルピスとは将来の望みである。将来であるはずの「希望」を彼らは過去として語っている。従って、彼らには「希望」は過去になり、もはや将来に望みを持つことができなくなったと語っているのである。彼らは、行くべき道、将来を見失ってしまったと語っている。これは「希望」ではない。彼らに希望は無くなった。希望は過去になった。過去になった希望は、働かなくなった希望である。潰えた希望であるならば、覚醒することは無い。しかし、眠っているだけならば、再び覚醒する。今日、二人の弟子たちに起こったのは、希望の覚醒である。それは、イエスを認識できないように掴まれていた目が開かれることによって、覚醒する希望である。それは如何にして起こったのか。イエスのパン裂きによってである。

イエスがパンを裂くという行為によって、罪に掴まれていた彼らの目が開かれた。掴んでいた悪しき罪の手がほどかれた。イエスの主導の下で、弟子たちの目は開かれるのである。この出来事は聖餐へとつながっている。聖餐の度に、我々は罪に掴まれていた目を開かれて、イエスを認識する。イエスが我々に与え給うパンと葡萄酒を認識する。イエスの体と血として認識する。これは、イエスの言がパンと葡萄酒と共に与えられるからである。このエマオの出来事を土台として、使徒言行録の初めに記されている「パン裂き集会」は理解されなければならない。使徒言行録2章42節にはこうのように記されている。「彼らは使徒たちの教えと交流を絶えず行っていた。そして、パンを裂くことと祈ることを。」と。聖霊降臨日に宣教を始めた教会エクレーシアは、教えと交流、パン裂きと祈りを絶えず行う群れであった。それがキリストの教会として生きる命の源だったのである。宣教は、教えと交流、パン裂きと祈りによって推進されている。我々が礼拝として守っているものの原型はここにあるのだ。その始まりは、エマオ途上におけるイエスのパン裂きである。

このように見てみると、エマオ途上において、イエスはイエスを認識することをパン裂きを通して弟子たちに開いたと言えるであろう。イエスから開かれたパン裂きは、イエスの最後の晩餐の現前化であり、二人の弟子たちは最後の晩餐の出来事を目の当たりにして、イエスを認識したと言えるであろう。

イエスは、十字架の前に教会のイメージを弟子たちに与えていた。実はそれこそが彼らの「希望」エルピスだったのだ。彼らが過去として言及した「希望」は本来イエスが与えた希望ではなかった。二人の弟子たちが言うように、「わたしたちが希望を持っていた」という彼らの希望でしかなかったのだ。それゆえに、彼らの希望は過去になってしまった。真実の希望は、最後の晩餐の席上でイエスから与えられていたのだ。彼らの目が罪によって掴まれていたがゆえに、その希望は眠っていたと言えるであろう。眠っていた「希望」は、この日イエスのパン裂きの行為によって、覚醒されたのである、二人の弟子たちに。「主よ、あなたはわたしの希望」と詩編71編の作者が詠う通りである。エレミヤも17章13節で詠っている。「イスラエルの希望である主よ。」と。従って、希望とは神ご自身であり、キリストご自身である。希望の主体は神とキリストなのだ。我々が期待する希望は、我々に都合の良い希望であり、人間的な希望である。そのような希望は潰え去る。何故なら、人間の希望は他なる人間の希望と対立するからである。人間同士が希望の対立、いや期待の対立によって、争う。人間同士の争いが互いの期待を打ち壊す争いであることからも明らかである。我々人間が希望と呼ぶものは真実の希望ではないのだ。

希望とは未だ見ていないものであると、使徒パウロはローマの信徒への手紙8章24節でこう言っている。「見られている希望は希望ではない。何故なら、見ているものを誰が希望するだろうか、ということだから。」と。見ていないということは、将来というだけではなく、我々の目が見ることができないこと、我々の思考が考えることができないことを指している。従って、我々人間の思考の外にあるものだけが真実に希望なのである。

我々人間が考えることができる希望、期待することができる希望は、希望ではない。単なる人間的期待である。そのような期待は、他者によって破壊され、暴力によって潰えてしまう。しかし、真実の希望、神が与え給う希望は、失われることはない。そして、必ず実現するのである。何故なら、神が与える希望は、神の意志であり、神の言なのだから。イザヤ書55章11節で神ヤーウェが語る通りである。「何故なら、わたしの口から出たわたしの言は、虚しくわたしのところに帰らない。何故なら、それは、わたしが喜んでしまっていることを完成し、わたしが送ってしまっていることを完了するからである。」と。

エマオ途上におけるイエスの顕現は、二人の弟子たちにイエスという希望を覚醒させた。最後の晩餐の席上で与えられていた希望は、彼ら弟子たちの目が罪に掴まれてしまっていたがゆえに、眠っていたかのようである。イエスが与えた希望は与えられた弟子たちのうちに眠っていたのであろう。弟子たちの目が掴まれていたがゆえに眠っていたのであろう。しかし、覚醒するときを待っていた。そのときが、エマオ途上において来たったのである。そのとき、彼らの心は燃えたと言われている。彼らの心も眠っていた。眠っていた心が燃え上がる。与えられていた希望が覚醒したからである。

彼らが認識したのは、自分自身の感覚における心の再活性化であった。再活性化された心の火種は、イエスのパン裂きであった。さらに、最後の晩餐におけるイエスの自己贈与であった。イエスの自己贈与がすでにあったがゆえに、このとき彼らの心は燃えたのだ。イエスが彼らの心を燃やした。イエスのパン裂きが彼らに与えられていた希望を覚醒させた。希望の覚醒が生じた。希望の覚醒を起こされた二人の弟子たちは、すぐにエルサレムに引き返した。そのとき、すでにペトロにもイエスは現れていたのである。こうして、イエスは弟子たちを一つところに集め給うた。自分たちの期待を破壊されたと落胆していた者たちが、すでに与えられていた希望が覚醒したとき、一つに集められたのだ。

我々の希望はイエスご自身である。イエスの復活は、我々の希望の初穂なのだ。我々が掴まれていた目を開かれることの初穂、我々がイエスのように生きることの初穂なのだ。今日も共に与る聖餐において、我々に与えられているイエスという希望が覚醒され、我々が喜びをもって、イエスに従って生きていく力をいただくことができるようにと、イエスはあなたの目を開き給う。

祈ります。

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