「不信のただ中へ」

2016年4月10日(復活後第2主日)

ルカによる福音書24章36節~43節

 

「彼らは恐れる者たちとなって、考え続けていた、霊を見ている、と。そして、彼は彼らに言った。」と言われている。恐れに取り憑かれた弟子たちに、イエスは語ることによって自らを示す。「何故、あなたがたは混乱している者たちであるのか。何故、あなたがたの心の内に、疑いを上らせるのか。見なさい。」と。イエスは、自らを見るようにと語りかける。イエスを見ることによって、あたかも疑いが晴れるかのように。そうである。イエスを見ることによって、すべては平安へと収斂する。イエスを見なければすべては疑いのまま彼らを支配するであろう。イエスはご自身を見せることによって、彼らに語りかけるのだ。見せるということは語ることである。自らを示すことは語ることである。イエスご自身の存在が語っているのだ、「わたしは生きている」と。

生きているということは、見えているということだろうか。見えているのは現象である。現象が真実であると言えるのであろうか。我々が見るものは真実なのか。いや、我々が見るものは我々が見たいものである。見たくないものは見ないのが罪人である。ありのままに見る者は罪人ではない。罪に支配された視覚は自分の見たいものしか見ない。罪から解放されてこそ、我々はありのままに見ることができる。自分自身も世界も、ありのままに見るのは信仰における視覚である。それは神が見せ給うように見ることである。神が「極めて良し」と言われたように見ることである。我々が信仰によって見る世界は「極めて良し」の世界である。罪によって見る世界は自分に都合の良い世界や自分に都合の悪い世界である。都合の悪い世界を見ても、我々はそれをありのままに見ることはしない。都合良く解釈して見るのである。従って、我々が見る世界は自分に都合の世界である。しかし、神の世界は我々に都合が悪かろうとありのままに「ある」世界である。この世界を認めるとき、我々は信仰によって世界を認識していると言えるであろう。

弟子たちは自分の都合の悪い世界を見ていた。死んだイエスが目の前に立っているのは、彼らにとって都合の悪い世界なのである。何故なら、死んだ者は生きていないのだから、死んだ者が見えるならば、我々は視覚を自分で支配できないということになる。それはわたしにとって都合の悪い世界である。見えないはずの世界である。それゆえに、「霊を見ている」と弟子たちは自分たちに都合の良い解釈を施すのである。見えるはずのないイエスが見えるのだから、自分の都合から言えば「霊を見ている」ということになる。それで自分自身の視覚の錯誤を補正するのである。

ところが、イエスは手と足を見せる。さらに、魚を食べて見せる。イエスは、弟子たちが錯誤に陥っていると思っているものを修正しようと必死にご自身を現すのである。これはどうしたことであろうか。弟子たちを叱っても良いであろうに、イエスは弟子たちを叱ることなく、彼らにご自身の手足を見せ、魚を食べて見せる。イエスは、弟子たちの不信のただ中に入り込んでいるかのようである。弟子たちの不信を非難することなく、それを受け入れ、彼らにご自身を見せるのである。イエスは弟子たちをそこまで愛し続けておられる。どうしてなのか。

弟子たちがイエスに従ったからか。弟子たちは十字架の前に逃げ去ったのではないのか。弟子たちが苦しんでいたからなのか。弟子たちは婦人たちの証言をも疑ったのではないのか。弟子たちが不信であることから抜け出すことができずにいたからか。そうである。弟子たちの不信を覆すためにイエスはご自身を見せてくださったのだ。弟子たちの不信のただ中へと入ってくださったのだ。それはどうしてなのか。どうして、イエスはそこまでするのか、弟子たちだけに。ファリサイ派や律法学者たちにはそうしないのはどうしてなのか。そこに偏り見るイエスの愛があるのだ。

我々キリスト者はイエスに愛されて、ご自身を見せられた者たちである。それは、我々の功績ではない。我々が何か善きものであったからではない。我々が何か神に認められるようなことをなしたからではない。我々は何者でもなく、何もできず、哀れな存在であった。その我らを哀れんでくださり、現れてくださったイエスは、ただ我々を愛してくださったのだ。それは選びでもある。

選びとは、選ぶ主体があって成立することである。揺るがない主体があって、選ぶということが生じる。選びは選ぶ主体に依存している。我々がイエスを見たことも、弟子たちが見たことも、イエスを信じることも、すべては向こうから来たるものである。我々が見る力があったわけではない。我々が信じる力があったわけではない。ただ、イエスが我々に、弟子たちに、ご自身を見せられたというだけなのだ。このイエスの意志はどうして生じたのか。それは、神がイエスと我々を結びつけたということなのである。我々からイエスに結びつくことはなかった。我々の思考ではイエスを認識することはできなかったのだ。それなのに、我々がイエスを認識し、イエスを信じるということは、我々の自然的生からは生じないのである。神から来る信仰的生においてでなければ、我々はイエスを見ることも信じることもできないのである。復活したイエスを見た弟子たちも同じであった。そして、イエスは弟子たちの不信のただ中へとご自身を現されたのである。

このイエスの選び、イエスの顕現、イエスの語りは、弟子たちに何故に生じたのだろうか。イエスが彼らに信じる者になって欲しいと願ったからである。イエスの願いにおいてのみ、我々はイエスを見て、イエスを信じることが可能なのである。イエスが願わなければ、我々は信じることもできない。見ることもできない。これが信仰の秘儀である。イエスを見るために、弟子たちは何もなし得ず、ただイエスだけがなし得た。イエスご自身が弟子たちを愛し、現し、信仰へと導かれた。これが復活の日に起こったことである。これはこの世の自然的生には受け入れ難いことである。何故なら、自然的生は理由を自らのうちに求めるからである。信仰的生は理由を神の意志に求める。神がそう願われたがゆえに我々は信じるということを、信仰的生は認めるのである。自然的生は、我々がイエスを見たり、イエスを信じたりする理由を自分のうちに求める。それゆえに、自分が一廉の人間であることを誇るのである。自分の能力によってイエスを見た、イエスを信じたと思うのである。このとき、自然的生は信仰を覆して、自分の力としてしまう。ルターが言うような「我々のうちにおける神の活き活きとした活動」である信仰には至らない。そのような信仰を認めない。それゆえに、自然的生はその信仰に触れていても、認めることができず、不信に陥る。弟子たちが不信に陥っていたのも、婦人たちの証言を認めなかったのもこの自然的生の罪ゆえである。

ところが、この不信のただ中へとイエスはご自身を現し給う。不信のただ中へと、イエスはご自身の信仰を投げ入れ給う。不信のただ中にある者たちを救うために、ご自身を投げ入れ給う。それはイエスの愛である。弟子たちを、そして我々を愛し給うイエスの愛ゆえに、イエスは我々の不信のただ中へとご自身を現し給うのだ。

魚など食べなくとも良いのに、わざわざ食べて見せるイエス。愚かな行為と思える。この愚かさこそがイエスの愛である。それは十字架を負われた愚かさである。十字架に死ぬ愚かさである。十字架を引き受けた愚かさである。イエスの愚かさゆえに、弟子たちは救われ、我々も救われている。我々が信仰を与えられるのは、イエスの愚かさゆえである。イエスが愚かにも、ご自身をわざわざ見せ給うがゆえに、我々も弟子たちも救われているのである。見せ給うお方を知ることは、我々の側に力があるからではない。イエスご自身の愛が我々に見せるのだ。この愛を受けている者として、我々はイエスから派遣されるのである、不信のただ中へと。

我々の不信のただ中へと入り来たり給うたイエスゆえに、我々はこの世の不信のただ中へと出かけていく。イエスを共に見るために。

祈ります。

Comments are closed.