「関係の必然性」

2016年4月17日(復活後第3主日礼拝)

ヨハネによる福音書10章22節~30節

 

「わたしと父は一である。」と30節でイエスは言う。この言葉と先の29節の言葉の関連がさっぱり分からない。イエスは、彼ら羊たちをご自分の手からだれも奪わないと言った後で、「わたしに与えたわたしの父は、すべてのものよりも大きい。」と言い、「そして、だれも奪うことはできない、父の手から。」と言うのである。それは、父がすべてのものよりも大きいお方なのだから、すべてを支配しておられて、父の手から奪うなどということは不可能なのだということである。そして「わたしと父は一である。」と言う。新共同訳は違うように訳しているが、ここでイエスが語ることはこのようなことである。従って、イエスは父との一である関係にあり、イエスも「すべてのものよりも大きい」父の息子として「すべてのもの」を支配しているということである。父が息子であるイエスに羊たちを与えたので、羊たちはイエスの羊たちである。これは父の決定である。その羊たちを父の手から奪うことは父よりも小さい存在である人間にはだれもできないのである。息子であるイエスでさえ、父から与えられなければならないのであって、父の手から奪うようなことは不可能なのだとイエスは言うのだ。すなわち、父とイエスとの関係は「与える者」と「与えられる者」という関係である。この関係は、だれかが奪うことなどできない必然的関係、必然的結びつきなのだとイエスは言うのである。それが「わたしと父は一である」ということなのである。

このような関係の必然性に従って、イエスはイエスの羊を受けている。それゆえに、父が決定したイエスと羊との関係も必然的なのである。イエスの羊とされることは父の決定であって、人間がその関係を自分で獲得すること、奪うことはできないのである。ということはこのイエスの言葉は決定論である。最初から決まっているということである。決まっているので、すでに語られている。語られているがゆえに、だれもそれに変更を加えることはできない。決まっているのであれば、あるべきものがあるというだけである。それゆえに、ユダヤ人たちがイエスに「もし、あなたがキリストであるなら、わたしたちに言え、はっきりと」と言っても、始まらない。分かる者には分かる。いや、「キリストである」とイエスが言っても聞かないのだ、父がイエスに与えた羊でなければ。それゆえに、イエスは言う。「わたしの羊は、わたしの声を聞いている」のだと。「聞き分ける」という意味ではなく、「聞き従う」という意味のアクーオーという言葉である。それゆえに、「わたしもまた認識している、彼らを。そして、彼らは従っている、わたしに。」とも言うのだ。つまり、現在わたしの羊はわたしに従っているのだと言うのだ。ということは、イエスに「はっきり言え」と言わなくても、従う者が従っているのだ。イエスがこのときはっきり言ったとしても、彼らはその証拠を示せと言うであろう。そして、結局従わないということになるのである。イエスの羊ではないからである。

「聞く」ということは、注意して聞き、受け入れることである。そうでなければ、ただ「聞こえている」に過ぎない。それは「聞く」とは言わない。聞こえていても聞き従うものではない。「聞く」とは、自らのこととして聞くことである。それゆえに、イエスの声を知っているのだ。それは単に声の調子、口調などを知っているのではない。イエスが語ることにおいて、イエスの心を認めて、受け入れ、自分に語られているイエスの心を「聞く」のである。これが聞くことである。そのように聞くことができないならば、イエスを問い詰めるユダヤ人のようになるのである。

彼らは、イエスの言にイエスの心を聞いて、受け入れるのではない。イエスの言葉の意味を検証し、イエスの言葉が真実であるかどうかを彼らが確定した後、受け入れても良いだろうということになる。しかし、それではイエスの心は受け取られていない。イエスの声に含まれているイエスのすべてを受け取っていない。そこには関係の必然性はないのだ。神がイエスに与えた羊は、神によってイエスと必然的に結ばれているがゆえに、イエスの声を聞くのである。ただそれだけである。イエスがユダヤ人たちにこう言うのも当たり前なのだ。「わたしはあなたがたに言った。そして、あなたがたは信じていない。」と。イエスの声を聞くということは信じることなのである。イエスの声を聞く羊は信仰において聞いている。神がイエスと羊とを結びつけた決定において、羊たちには信仰的に聞く耳が与えられているからである。だからこそ、ユダヤ人たちがいくら聞いても聞くことができないのである。

我々キリスト者は、神がイエスに結びつけたイエスの羊である。イエスの声を聞き、従う羊である。この羊たちは決定されているとは言え、現実の世界においては、未だイエスの羊である現実が現れていない者たちもいる。いま現在、イエスの声を聞いていないとしても、いずれ聞く耳が開かれることはある。それゆえに、決定論ではあるが、この世の時間においては未だ未決定状態に置かれているのである。あのユダのように、羊であったにも関わらず、イエスの声を聞いていたにも関わらず、羊である自分を失ってしまうこともあるのだ。それゆえに、いま現在イエスの声を聞いている我々も、気をつけていなければならない。いつ何時、我々がイエスの声を聞けなくなるかも分からないのだから。

さらに、我々はこのイエスとの関係を我々から獲得することはできないのだ。失ったとき、我々は失われてしまうのだ。それが、回復するのは、あくまで父の働きに自らが開かれるときだけである。それゆえに、我々キリスト者は傲慢にも自分が獲得したかのように、イエスとの関係を誇ってはならない。むしろ、我々は神の憐れみによって、イエスに結ばれていることを感謝すべきなのだ。神はすべてのものより大きいお方なのだから、我々を支配しておられる。支配されている者が、支配者を選ぶことはできないのだ。罪の支配者はサタンであるが、このサタンにも支配されてしまうのが我々人間である。いや、イエスの声を聞くまでは、サタンに支配されていた我々なのだ。父なる神は、サタンに支配されていた我々をイエスのものとして支配してくださった。こうして、我々が決定されていたイエスの羊性が現れた。我々は、自ら救われる力はない。すべてを治めたまう神の力が救う。わたしの力を捨てるとき、イエスの羊として生きることができるのである。父の決定に従って。

「わたしの父の名において、わたしが行う業」である十字架において、イエスもご自身の力を捨て給うた。父なる神の御力に信頼し給うた。そして、死者たちの中から起こされたのである。あくまで、神の力がすべてである。神の力にこそ、我々を信じる者にする力がある。我々には信じる者になる力はない。神の力に信頼し、神にすべてを委ねなければ、我々は信じることも生きることもできないのだ。そのような塵に過ぎない我々のために、父なる神は独り子イエスを十字架に引き渡し給うた。我々を憐れみ給う神の愛が、我々をイエスに結びつける。母の胎にあるときから、わたしはイエスの羊として生きるようにされていた。わたしがイエスを選んだのではない。イエスがわたしを選んだ。父なる神が決定し給うた。それゆえに、我々がイエスに従うことは、父なる神の御力に信頼するときに可能となるのである。

我々の信仰はすべて父なる神にかかっている。イエスの羊であることも父なる神にかかっている。すでにあるようにあるということが、我々が信仰において生きることである。イエスの羊であることを生きるとき、我々はイエスによって養われ、悪から守られ、永遠の命に至るのである。

関係の必然性において、我々がいま生きている信仰を失わないように、気をつけていよう。あなたのために、十字架を負われたイエスを仰ぎながら、神の愛の中で生きていこう。必然的にあなたはイエスの羊、イエスに従う者、イエスの命をいただいた者なのだ。日々におけるあなたの生が、永遠の命に至る道を歩み続けることができますように。父と一なるイエスのうちに生きていこう。祈ります。

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