「互いの内の愛」

2016年4月24日(復活後第4主日)

ヨハネによる福音書13章31節~35節

 

「このことにおいて、すべての者が認識するであろう、あなたがたがわたしの弟子であることを。もし、愛を、あなたがたが持つなら、互いの内に」とイエスは言う。弟子たちがイエスの弟子であることをすべての者が認識するようにと、イエスは求めているのか。イエスの弟子であると認識されることで弟子たちはどうなるのか。それが、イエスの栄光化なのだろうか。父の栄光化なのだろうか。

父とイエスの栄光化は十字架であるがゆえに、弟子たちがイエスの弟子であるとの認識が開かれるときには、弟子たちは十字架と同じようにされるのではないのか。そうである。この世から排除されるのである。イエスが求めているのは、そのような弟子たちになることなのだろうか。弟子たちが互いの内に愛を持つということが起こるのは、彼らが自らをイエスの弟子であるように生きるときである。すなわち、弟子たちが十字架を負うときである。互いに愛し合うと言われる事柄は、弟子たちが自分の十字架を負うときに生じるということである。従って、互いの内に持つ愛はイエスの十字架の愛である。一人ひとりがイエスの十字架の愛を自分への愛として持っているならば、互いの内に愛を持つことが生じる。そして、この世のすべての者が、彼らはイエスの弟子たちだと認識するのである。そのようになるとき、彼らは迫害されるであろう。しかし、イエスの愛が彼らを結び合わせるのだ、永遠へと。それゆえに、十字架を負って、進み行くことが可能になる、イエスの弟子たちとして。この世が迫害してもなお、彼らはイエスの愛を自らのものとして持ち続ける。イエスの愛に励まされ、力を与えられて、彼らは迫害をものともせず、互いに愛し合い、支え合って行くのである。これが、父なる神の栄光化であり、子なるキリストの栄光化である。弟子たちは、迫害を引き受けることを通して、神を褒め称え、主イエスを褒め称える。教会とはそのように生きてきたのである。

互いの内にイエスの十字架の愛を認めることが教会が教会であることを作るのだ。教会がイエスの十字架の愛によって作られているのは、互いの内の愛を認める存在を受け入れているからである。教会が受け入れる存在は、自らの内にイエスの十字架の愛を認める存在である。それゆえに、イエスの十字架の愛に押し出されて、自分の十字架を負う存在である。自分の十字架を負わない者は、教会の内に置かれることはない。自分の十字架を負う者が、互いの内の愛で結ばれるのである。イエスの十字架の愛が結び合わせる存在同士の間に教会は立っている。キリストの体として立っている。

教会は、慰め合うより励まし合う。苦難を避けるより、共に担い合う。苦しみが悪しきものではなく恵みになる。十字架が恐ろしいものではなく、愛おしいものとなる。教会は十字架によって立っている。十字架が教会を生み出したのだ。十字架が神の栄光を見せてくれる。苦難が神の恵みであることを見せてくれる。それが教会であり、互いの内の愛が苦難を通して結び合わせる出来事なのである。

互いの内の愛は、人間的な愛ではない。友としての愛ではないし、感情的愛でも無い、何も求めないところに生じる愛である。キリストの十字架の愛は、我々に何も求めない。何も強いない。何も指導しない。ただ、与えられている。如何なる人間であろうとも与えられている。如何なる人間であろうと愛している。如何なる人間をも受け入れている。その愛を自らの内に見出した者は、互いの内にも見出すのだ。見出した十字架の愛が、必然的に結び合わせるからである。このような愛は、創造する愛である。愛する対象を求める愛は人間的な愛である。ルターが言うように、愛する者を創り出す愛が十字架の愛である。十字架の愛を自らの内に見出した存在は愛さずにはおられない。自らの内なる十字架の愛が愛するからである。

このように愛する者とされるとき、我々はキリストの弟子である。キリストの愛がわたしを愛する者として創造してくださる。そのとき、わたしは弟子になるために愛するのではない。愛しているがゆえに弟子であることが見えるだけである。しかし、そのとき、わたしはキリストの弟子として、排除されるのだ、この世の交わりからは。何故なら、この世の交わりは、友愛や感情的愛でできているからである。キリストの弟子としての愛は、仲間意識を生み出さない。感情的愛ではなく、理性的愛である。友愛も情愛も共に、相手によって変化する。理性的愛は変化しない。愛は感情ではない。友愛や情愛が排除する存在を、理性的愛は受け入れる。敵さえも受け入れる。迫害する者さえも受け入れる。敵の内にもキリストの十字架の愛が注がれていると知っているから。迫害する者にもキリストの愛が注がれていると認めるから。理性で認めるから。このような愛は、我々人間の愛ではない。我々人間が「愛している」と感じるような愛ではない。友愛や情愛は心から愛することのように思えて、時の経過によって薄れてしまう。薄れてしまうがゆえに、消えていく。そして、どうしてこんな人を愛したのかと思えてくるものなのである。

理性的愛は、情に流されないのだから、変化することはない。感情ではないから、経年変化は被らない。常に新しく愛する。変化せず、深められる。キリストの十字架が自らのうちに創造し給う愛なのだから。わたしが如何なる状態にあろうとも変化を被ることなく、わたしを愛する者として創造し給う。それが神の愛、アガペーであり、理性的愛なのである。この愛に結ばれている存在同士は、理性的関係を生きている。それゆえに、仲間意識などというものではないし、対象を選ばない。対象によって愛の大きさが変わることもない。ある人だけを特別に愛することもない。すべての存在を生かすように愛する。キリストの十字架が愛するように愛する。キリストの十字架から流れ出る愛が愛する。キリストの十字架を与えるために流れ出る愛。罪を赦し給う愛は、良い人間を求めない。人間はすべて悪であることを受け入れ給う。人間はすべて悪しか計画しないことを受け入れ給う。受け入れる愛が、悪である人間を造り替える。神の愛に従って生きる者へと造り替える。しかし、造り替えようとして受け入れるのではない。ただ受け入れるがゆえに、受け入れた存在には何も負わせない。しかし、受け入れられた存在自体が受け取るとき、受け取られた愛に従って愛する者として創造されるのだ。それゆえに、何も求めず、何も負わせない愛が創造する愛なのだ。

ところで、このように受け取る存在は、如何にして生じるのであろうか。受け取るときに生じるのだから、自らが生じようとすることでは生じない。目的を持たず、ただありのままに受け取るとき生じる。しかし、生じるために受け取るのではない。受け取る者が受け取り、生じる者が生じる。それゆえに、互いの内の愛を受け取っている者は、互いに愛するイエスの弟子になろうとしてなるのではないのだ。受け取る必然を生きている者が、必然的に弟子である。ありのままに生きている存在が、十字架の愛によって生じた存在なのである。

我々が互いに愛し合うのは、イエスの弟子であることを世に知らせるという目的のためではない。ただ愛し合うことを生きるだけが、我々キリスト者の在り方である。弟子であることを世に知らしめる目的を持つとき、我々の愛は純粋ではなくなる。純粋でない愛は、友愛や情愛に堕してしまうのだ。ただ愛することがないのだ。愛した報いを求めるならば、理性的愛ではない。キリストの愛ではない。キリストの弟子ではない。キリストの弟子であろうとするとキリストの弟子ではないことが明らかになってしまうのだ。これがキリストが互いの内に置いた愛。十字架の愛なのだ。この愛によって創造されるように、ありのままに生きていこう。我々は、何者でもなくとも愛されているのだから。取るに足りない者であっても愛を与えられているのだから。小さな存在であろうとも愛されているのだから。キリストは我々の内に置いてくださった愛によって、我々を弟子として造ってくださる。キリストの十字架の愛が造り給うわたしを共に生きていこう。

祈ります。

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