「関係の創造」

2016年5月1日(復活後第5主日)

ヨハネによる福音書14章23節~29節

 

「わたしは行っている。そして、わたしは来ている、あなたがたのところへ。」とイエスは言う。行くと来るということは、イエスが父なる神と弟子たちの間を行き来しているということである。それは、イエスが父なる神と弟子たちとの間を取り持つことであり、関係の創造である。いや、実は父の側からは常に関係を結ぼうとしてきたのだ。しかし、人間はそれに応じることなく、神の手を振りほどいてきた。関係は人間の側から結ばれることはない。しかし、人間は差し出された父の手を受けることだけはできるはずなのだ。それにも関わらず、人間は差し出された手を振りほどいてきたのだ。それゆえに、イエスは父と人間との間を行き来している、イエスによって、人間が父の手を受け取ることが可能となるようにと。これはイエスが父と人間との関係を創造することである。イエスが父の許に行くことは、人間との関係創造のためである。

関係の創造は、愛の創造である。イエスを愛する者は、イエスの愛を受け取っているがゆえに愛する。イエスを愛する者は、イエスと父との密接な関係を認識しているのだから、イエスと父との関係と同じように、父とイエスはその人のところに行って住むと言われているのだ。この関係を創造するのが聖霊、励ます者である。

聖霊はイエスと父との関係を人間と父なる神との間に創造する。そして、人間は父の子として生きるようになる。これが、聖霊が創造する関係である。では、この関係に入るにはどうすれば良いのだろうか。そこに十字架が関わっているのだ。

イエスが父の許に行くことは十字架の出来事を通してである。十字架の死において、イエスは父の許に行く。イエスの十字架の死において、イエスは自分の霊を引き渡した、父に。父から派遣されたイエスが死んで、霊を父に引き渡す。この出来事において、父の許から来たったイエスは父の許に行っている。こうして、イエスは父との間を行き来しながら、弟子たち人間と父との間を結ぶのである。そのために、聖霊が関わっているということはどういうことであろうか。イエスが父の許に行けば良いだけではないのか。そうではないのだ。父の許に行ったイエスが、地上にいた間に語った言葉を弟子たちが思い起こすことにおいて、父との関係が創造されるからである。そこに聖霊が関わっているのだ。

イエスの言ロゴスは、イエスご自身の在り方を語っている。イエスご自身が語った言ロゴスがイエスご自身を弟子たちに与える。イエスご自身は父との密接な関係に生きている。そのイエスが語った言は父が語った言である。それゆえに、イエスが語った言に従う者は神に従うのだ。神に従うことにおいて、我々はイエスに従っている。神の言は、イエスというお方を通して我々に来たったのだから、神の言に従うことはイエスを愛することだとイエスは言うのだ。それが、イエスが与える平和である。

イエスは世が与えるようには与えないと言うが、それは与え方の違いである。世が与えるという場合は、与えられるために何かをしなければならないのである。世が与える平和を獲得するために、我々は戦う。そして、我々が獲得した平和を維持するために、人を排除することもある。世が与えると言うけれど、世は与えない。世は、獲得する方向で我々を誘惑するのだ。平和は獲得するものだと、我々は考えてしまう。なかなか得られないものであるがゆえに、我々は平和を大切なものだと思う。なかなか得られない平和は希少価値だと思うからである。

しかし、イエスが与える平和はそれとは違うと言う。ということは世の反対の相にある平和だと言うことである。獲得するのではない平和とはどのような平和なのだろうか。それが、聖霊が関わる人間と神との関係の創造において来たるのである。来たるとは言っても、来たるのではなく、あるのである。あるものがあるものとして認識されるときに、与えられる平和、シャロームである神との関係である。それは、我々人間が神の平和シャロームの中に入れられることであり、我々から入ることではないのだ。

イエスの十字架において生じた出来事は、神との平和という関係である。この関係を人間自身の許へともたらすのが聖霊である。弁護者と訳されているが、励ます者である。傍らに立って、耳元で励ます者が聖霊である。この聖霊は、我々の曇った目を開いてくださる。イエスが語った言が真実であったと認識させてくださる。イエスの言は父の言であると認識させてくださる。そのとき、我々はイエスと父との関係の中に入れられている。我々の父なる神として神との関係が創造されたからである。父なる神がイエスよりも大きなお方であるがゆえに、我々を包むお方である。この方のうちに生きる存在として自らを認識するとき、我々は平和を与えられる。戦うことなく与えられる。人を排除することなく与えられる。戦いも排除も平和にはあり得ない。この世の平和にはあり得ても、神との平和にはあり得ない。何故なら、父はすべてのものの上におられ、すべてのものを包んでいるからである。すべてのものを包んでいるのだから、誰かが戦って獲得するというような平和は、父との間にはあり得ない。むしろ、父が常に差し出していた手を受け取れば良いだけなのだ。それは誰にでも受け取る可能性が開かれている手である。この真理を受けることができるようにと聖霊は派遣される。イエスと父から派遣される。イエスと父との関係の中から派遣される。この聖霊が来たることによって、我々は父との関係を創造される。それは、聖霊が創造するようでいて、父が創造するのである。父こそが創造主だからである。

関係の創造は父のもの。聖霊は父のものである関係の創造の中に我々を入れるお方。我々の曇った罪の目を開くお方。我々の傍らで励ますお方。聖霊はどのように励ますのだろうか。

聖霊は励ます、我々が獲得しなくともすでに平和があるのだと。獲得する方向で努力するのではなく、受ける方向で努力するのだと。受けるべきことを受けるようにするには努力が必要である。獲得するように働かないという努力である。それは受ける努力ではあるが、何もしないで受けることを努力するのである。それゆえに、獲得する方向で生きてきた存在には難しいことである。何もせずとも与えられているということを受け入れるのは難しいのだ。獲得しなければ得られないと考えてきた存在は、何もせずとも与えられているということを受け入れることが難しい。それゆえに、聖霊の励ましが必要なのである。

聖霊は励ます、あるものをあると認めるようにと。あなたの力では獲得できないと。獲得できないことを認めるようにと。獲得するのではなく、与えられているものを認めるために、自ら閉じているものを開くようにと。我々は恐れている。自らを開けば、すべてをさらして、すべての人につけ込まれるのではないかと。自分は自分で守らなければならないと。自分のすべてを知っているのは自分だけだと。誰にも知られないように、隠すべきことがあると。こうして、我々は自分の世界を構築し、自分の世界を開かずとも平和に暮らせる方法を求める。それが、同病相憐れむ世界である。同病でなければ排除すれば良い世界である。このような世界は病んでいる。この世界は閉じられている。開かれていない世界は死んでいる。何故なら、神はこの世界を創造されたとき、すべてを開いておられたからである。もちろん、限界を定めてもいた。しかし、それぞれの領域において、他の領域の存在も含めたすべてのものが受け入れられるようにと開いておられた。我々が罪を犯した後、エデンの園は閉じられたのだ。閉じられた扉を開くのは、聖霊である。神の園、エデンの園は今や開かれていると励ます聖霊である。この聖霊はイエスと父とわたしとの関係を創造する。創造する霊である聖霊がイエスの言を思い起こさせ、イエスと我々を結び、我々と父との関係を創造する。

今日共にいただく聖餐は、イエスご自身の死を通して開かれた関係の創造を我々に与える。聖なる礼典において、我々は父とイエスとの関係に入れられる。我々は平和をいただき、父とイエスと共に住むのだ。永遠なる命のうちに。

祈ります。

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