「約束に座す」

2016年5月8日(主の昇天主日)

ルカによる福音書24章44節~53節

 

「モーセの律法と預言者たちと詩編において、書かれてしまっていることすべては満たされることになっている、わたしに関して。」とイエスは弟子たちに言う。満たされることになっているということは必然的にそうなっているという意味である。満たされないということはあり得ないとイエスは語っているのだ。従って、それが人間的次元における時間経過上、未だ満たされているとは思えないとしても、いずれ満たされるという神的必然の言葉なのである。ということは、イエスに関して、聖書に書かれてしまっていることすべてが必然的に成るのであり、神の意志に従ったことであるということである。それゆえに、イエスはこうも言うのだ。「わたしは送っている、わたしの父の約束を、あなたがたの上に。」と。つまり、イエスがこう語っている現在において「送っている」約束があるということである。その約束は今イエスが送っているがゆえに、すでにあるものとして弟子たちの上にあるのだ。弟子たちが確認できないとしてもあるのだ。見えないとしてもあるのだ。約束とは、約束された以上取り消されることはない。約束が取り消されるとすれば、約束ではない。約束は過去において語られ、確定されてしまっているものである。それがいつ現れるかは分からないとしても、必ず現れるのである。それが約束するということである。

イエスは弟子たちに父の約束を送っていると語っている。父が約束したのは、創造の初めにおいてであろうか。あるいは、アダムとエヴァの堕罪においてであろうか。約束がどこで行われたかはここでは語られてはいない。しかし、イエスは父なる神が約束したという事実を知っており、それを確証して、今送っていると言う。イエスは、その約束を自分で弟子たちに送っていると言う。父が送る約束をした。イエスは父の約束を送っている。

イエスが送るということは父の約束を送る働きをイエスが委ねられているということである。それはいつの時点で委ねられたのかは分からない。しかし、イエスは委ねられているがゆえに、今送っていると言うのだ。父がイエスを派遣すると決めた時点で、イエスが送ることが父によって決定されてしまっているのだ。イエスが今送っていると言うかぎり、イエスの十字架の後、復活して弟子たちに現れた今、父の約束を送っているということである。父の約束は聖霊である。イエスについて書かれてしまっている聖書の言葉を父の約束として人間に伝える聖霊は、イエスの派遣において人間に与えられているのだ、約束として。その派遣を受け取るのはイエスの十字架と復活を通して、神の意志を受け取ったときである。それでも、神の意志を受け取るということは、神の意志を伝える聖霊が働かなければ受け取ることはできない。それゆえに、イエスがここで語っている父の約束は送られているが、受け取られてはいないのだ。イエスは弟子たちが送られているものを受け取って欲しいがゆえに、ここでこう語っているのだ。

それにしても、送られているにも関わらず、受け取ることができていないということはどうしてなのだろうか。聖霊が与えられていないからである。しかし、聖霊が約束なのではないか。そうであれば、聖霊は送られているが、受け取られていないということになる。約束として送られていて、約束として受け取られていない。ということは、弟子たちには約束は未だ現実になっていないのだ。現実になっていないということは、彼らを支配していない。彼らの上にある約束を彼らは認識していない。それゆえに、神の支配に身を委ねていないのだ。従って、彼らは未だ罪の中にあって、イエスに関して書かれてしまっている聖書の言葉を全く受け入れていないということである。そのために、イエスは聖書を理解する彼らの理性を開くのだ。

「心の目」と訳されているがギリシア語でヌース「理性」のことである。この「理性」をイエスが開いたと言われているので、それまで閉じられていたのである。しかし、理性自体はこの世の事柄に対して働いているのだから、閉じられてはいない。ただ、聖書に対して閉じられて、聖書の言葉を受け入れることができない理性だったのだ。それゆえに、イエスはこの一般理性を特殊的理性として開かなければならなかったのである。イエスの開きによって、弟子たちは神の意志である聖書の中に、自分たちに関わるイエスに関する出来事が記されていることを知るのだ。イエスに関することが、弟子たちの救いに関わるのだと受け取る理性が開かれたのだ。この理性の開かれは、結局イエスが開かなければ開かれなかった。弟子たちが自分で開くことができなかった。一般的理性はあったとしても、信仰的理性、神的特殊理性は開かれなければ働かないのである。

さて、この神的特殊理性は如何にして働くのであろうか。我々が受け入れないものを受け入れるときには働いていると言える。しかし、受け入れないときも働いている。約束は約束として働いている。それでもなお、自己確信を求めて、自分で確認しないかぎり受け入れないとき、約束に座し続けることができなくなるのが人間なのである。約束に座し続けるのは、開かれた神的特殊理性において生じることなのである。従って、神的特殊理性は今弟子たちに開かれている、聖霊の派遣によって。しかし、聖霊を受け取っていない弟子たちには開かれていても働いていない。聖霊を受け取らないかぎり神的特殊理性は働いていない。

では、座し続けることができるとき、神的特殊理性は開かれているのか。開かれているがゆえに、約束に座し続けることが可能となるのである。イエスがこのとき開いた神的特殊理性は働き始めている。彼らが座し続けるように働き始めている。座し続けるとき、彼らは聖霊を受けている。彼らのうちに満ち溢れ、出て行く力となるまで満たされ続けながら、彼らは座すのである、父の約束に。

彼らのうちから満ち溢れ出ていくまで座し続けるのは、聖霊の働きである。聖霊は、弟子たちが出て行くときだけ働いているのではない。座し続ける中でも働いている。彼らのうちに父の約束が満ち溢れるまで働いている。働いているがゆえに、座し続けることができる。座し続ける中では、聖霊が働いているとは自覚できないであろう。自覚というものは、今現在働いていることを自覚することはできないからである。過去になったとき、「あのとき、働いていたのだ」と自覚するのである。そうであれば、弟子たちに「父の約束を送っている」とイエスが語った時点では、働いているのだ。イエスの言を真実の言葉として、父の約束として受け取らせ、座し続けさせるように働いているのだ。

聖霊はすでに送られている。ただ、弟子たちが自覚していないだけである。イエスが「送っている」と語っている以上、父の約束は送られているのだ。弟子たちが自覚しなくとも送られているのだ。ただ、父の約束が彼らのうちに満ち溢れるとき、溢れ出る力として、出て行く力として現れるのである。

従って、弟子たちは聖霊を受けており、聖霊は彼らのうちに働き始めている。ただ、彼らは溢れ出てくるときにのみ、自覚するのだ、聖霊は送られていたのだと。約束はすでにあったのだと。約束は実現したのだと。彼らのうちから溢れ出てくる力として自覚されたとき、彼らは父の約束が自らのうちに働いていた事実を受け入れるであろう。そのとき、聖霊は彼らに自覚されることになるのだ。聖霊の支配は始まっている。聖霊が溢れ出ていくとき、自覚されるために。

聖霊はイエスご自身と父が送るもの。弟子たちの許を離れたイエスご自身が弟子たちのうちに生きるようにする父の約束。父の力、デュナミスである。この父の力に覆われるまで、父の力が溢れ出ていくようになるまで、座し続けるとき、我々は聖霊の中で座し続ける、父の約束に。今日我々が聞いた言は、神的特殊理性を開くイエスの言。十字架の言なのである。感謝して受け、開いていただこう神の意志を受け入れる理性を、我々が溢れ出ていくために。我々はイエスの言において、必然的に溢れ出ていく者とされるのだから。

祈ります。

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