「出て行く力」

2016年5月15日(聖霊降臨祭)

ヨハネによる福音書16章4節b~11節

 

「真理を、わたしは言う、あなたがたに。あなたがたに益をもたらす、わたしが出て行くことが。」とイエスは弟子たちに言う。これが真理であると言う。「実を言うと」と訳される言葉は「真理を言う」である。イエスが語っていることが真理である。イエスがこの世から離れて、出て行くことが、弟子たちに益をもたらすという真理だと言うのだ。これは良く分からない言葉である。弟子たちにとって「悲しみ」でしかないイエスの離去が、彼らの益であるとはどういうことなのか。それは、聖霊が来たるということだと言うのだ。イエスの出て行くことと聖霊の来臨とが一つとなって、弟子たちの益となる。イエスが出て行かなければ、聖霊は来たらない。弟子たちにとって悲しみであることが益であるとイエスは言う。

我々は悲しみはなしにして、益だけを求めたい。弟子たちにしてみれば、聖霊が来たることよりもイエスが共に居給うことの方が良いに決まっている。イエスを失って、聖霊を得たところで何の益であろうかと思える。しかし、これが益であると言う。大きな一つを失って、何か分からない一つを得ると言われても、比較などできないのだから、失わないことを願うものである。ところが、我々は失わなければ同じところに留まることになるのだ。失うがゆえに、新たに始めることができる。新しく始めるということは、失ってこそ可能となる。失わないままでは、旧態依然としたものでしかない。失わないままでは、痛みも悲しみもないのだから、何が加わったとしても有り難みも薄い。それだけではなく、失って、破壊されてこそ、命は再生する。今まで守り続けていたものを失ってこそ、新しい世界に入ることができるのだ。我々は自分から失うこと、捨てることができない人間なのだから。

それゆえに、強引にもイエスは、出て行くことにおいて弟子たちに新しい世界を開こうとしておられるのである。イエスの心が分からないがゆえに、悲しみに暮れる弟子たち。しかし、益だと言われるイエスの言が弟子たちに残される。イエスの言に従うことによって、弟子たちは失った悲しみの中で益があることを見出すのである。イエスの言がなければ、弟子たちはうろたえて、自分の力で何とか立ち直ろうとするであろうし、何とか新しい先生を見つけようとするかも知れない。それではダメなのだ。彼ら自身がイエスの心を、イエスの意志を受け取ることがなければ、彼らは再生されない。それゆえに、イエスは出て行くのである。

従って、イエスが出て行くことで来たる聖霊は、弟子たちが新しい世界に出て行く力なのである。それはこの世に出て行くということではなく、この世から出て行く力なのである。何故なら、来たるべき聖霊は、この世を「叱責する」と言われているからである。弟子たちに降る聖霊によって、弟子たちはこの世を叱責する言を聞くであろう。それゆえに、弟子たちはこの世にこだわらずに生きていくのである。この世から出て行って、生きていくのである。この世から出て行くとは言っても、この世に生きていることに変わりはない。彼らが生きているのはこの世なのだから。しかし、この世の叱責の声が聞こえてくるのだから、この世は誤っていることが明らかになるのだ。弟子たちが聖霊から叱責を聞くのは、罪について、義について、裁きについてと言われている。

この世がイエスを信じないという罪。イエスが父の許に行き、弟子たちがイエスを見なくなるという義。この世の支配者たちが断罪されるという裁き。この三つだが、それぞれがこの世の判断とは反対だということである。

この世の価値においては、十字架で死んだイエスなのだから信じてどうなると思う。おまえたちも同じように死ぬつもりなのかと思うであろう。しかも、この世の支配者たちがイエスを裁き、十字架刑に処したのだから、自分たちこそは裁き主であると自負している。おまえたちも裁かれたいのかと考えるであろう。これらは、信仰者にとっては、この世が叱責されても理解できることである。

しかし、義について語られていることは、一般的に理解されている義とは違うように思える。義とは義しいことであるが、この世における義は倫理的正しさであり、間違いを犯さないことである。ところが、ここで語られているこの世の叱責事項は、イエスが父の許に行くことと弟子たちがイエスを見なくなることである。これは事実なのではないのか。今し方イエスが語ったことではないのか。この世がこのように見るのであろうか。そうである。この世は、もはやイエスはこの世にはなく、弟子たちと共にいることもないと考える。そのような不幸は、正しいことをしている人間には起こり得ないと考えるのだ。不幸は、罪の結果だとこの世は考えるからである。それゆえに、イエスは先に言ったのだ。あなたがたの益になると。わたしは父の許に行くが、聖霊によって時空を超えて、あなたがたと共にいることになるのだということである。これが義であるとイエスは言うのだ。

一般的に「義」とは、神の意志である律法に従うことによって義とされるということだと考えられてきた。律法を守らなければ義であることはない。イエスが十字架に架けられたのも、義ではないからである。罪人だからである。さらに、弟子たちがイエスを見なくなるという不幸に見舞われるのも、彼らが義ではなく、罪深いからであると考えられる。これが一般的にこの世が考える義である。ところが、そうではない義が聖霊によって与えられる。この世の義も罪も裁きもすべて虚偽であると、聖霊は叱責するのだ。それゆえに、弟子たちはこの世に従う必要がない。この世から追い出されても良い。この世から出て行く力、神の義をいただくからである。彼らが出て行くとき、彼らがこの世を捨てるのではなく、この世から排斥される。しかし、それが真理なのだとイエスは先に語ったのだ。この世にこだわらない信仰者はこの世から排斥される。これが真理である。この世に迎合しないのだから、排斥される。しかし、排斥されても、引き受けて生きるならば、出て行くのである。自らこの世を捨てて、出て行くのである。出て行くとき、我々はこの世から捨て去られている者として出て行くであろう。捨て去られたのだから、思い残すことはないと出て行くであろう。聖霊がこの世を叱責しているのだから、この世は永遠ではないと出て行くのである。

もちろん、この世にあって生きなければならない我々でもある。しかし、我々はこの世に支配されはしない。この世が神の意志とは全く反対の方を向いていることを知っているから。この世が神に従わない道を突き進んでいるから。この世が自分のことしか考えないで生きているから。この世の行き着く先は滅びだと知っているから。この世から離れていくイエスと同じように、我々も出て行くのである。この世を離れ、この世に対して福音を宣べ伝えながら。この世にあって生きざるを得ない我々がこの世に支配されずに生きることが可能なのかと思ってしまうであろう。しかし、可能なのだ。出て行く力、神の義をいただけば。聖霊の力をいただけば。

我々に力があるから可能なのではない。我々が弱くとも聖霊は強い。我々が愚かであろうとも聖霊は知恵であり給う。我々が貧しくとも聖霊は豊かである。聖霊に満たされるには、貧しくなければならない。何もない者としてただ受ける者とされる。弱いがゆえに聖霊が来たり給う。悲しむがゆえに、聖霊が送られる。愚かなるわたしに語るべき言葉を与え給う。悲しむ弟子たちに益となると言われたイエスの言の通り。何もなくなった弟子たちが聖霊に満たされたように、我々も満たされるのだ。何もないがゆえに満たされるのだ。

今日共にいただく聖餐もただイエスの言に従って受ける。アーメンといただく者こそ相応しい者。イエスが内に生きてくださる者。聖霊として内に生き給うイエスが我々に出て行く力をくださる。聖なる食卓を通して、与えられる力はすべての困難を超え出ていく力。十字架の主の力。感謝して受け、出て行こう、この世から、そしてこの世へと。

祈ります。

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