「望みから離れて」

2016年5月29日(聖霊降臨後第2主日)

ルカによる福音書6章27節~36節

 

「それでもなお、あなたがたは愛しなさい、あなたがたの敵を。そして、あなたがたは善を行いなさい。そして、あなたがたは貸しなさい。何も絶望しないで。」とイエスは言う。「何も当てにしないで」と新共同訳は訳し、「貸す」ことにかけているが、敵を愛することも善を行うことも含めて、「何も絶望しないで」行えということである。この言葉は「希望することから反転する」ことが原意であり、「絶望する」と訳される。それに「何も」という目的語が置かれているので、「何も絶望することなく」が直訳である。しかし、この訳ではつじつまが合わないように思えるので、「何も期待することなく」と訳すことになっている。田川健三は、この原因を作ったのはルター訳聖書であると断じているが、確かにそのようである。ルターは、地上的なものを期待することなく、神からの報いを期待することとして訳していると思われる。ルターの訳は意味を取った翻訳ということになる。しかし、原意に従った訳は「何も絶望しないで」である。ルターは神からの報いに絶望することなく、人からの報いに期待しないという意味に取ったのであろう。

「希望」エルピスは、聖書においては地上における何かではない。我々が何かを手にすることが希望ではない。ただ神だけが我々の希望である。神だけが失われない希望であり、手にできない希望であり、永遠に彼方にあり続ける希望である。希望は、手にしてしまったとき希望ではなくなる。希望は彼方にあるがゆえに希望である。手にしないことによって希望は希望として輝く。神が希望であるということは、我々が捉えることができないお方であるということである。我々が手にすることができないということである。手にできないがゆえに、神は永遠に希望そのものである。希望から距離を取っていることが希望が希望として生きることである。望みから離れてこそ、望みを望みとして保つことができる。望みが我々を動かす力となる。それゆえに、詩編71編5節には「主よ、あなたはわたしの希望」と歌われている。神ヤーウェが希望であるということは、わたしの手に捉えることができないがゆえに、希望なのである。望みとして離れているがゆえに、我々は神に向かって生きるのだ。神ヤーウェは離れているが、神がわたしを捉えておられるがゆえに、そうなのである。

ところが、人間が神を捉えたと思ったときには、神は希望ではない。手にできないお方ではないがゆえに、人間に捉えられるがゆえに、希望ではなくなるのだ。従って、永遠に捉えられない神だからこそ、我々の命、我々の力となる。十戒の第一戒は、捉えられない神を捉えうる形に貶めてしまうとき破られる。そして、人間の希望も失われる。捉えられる希望は希望ではないのだ。従って、望みから離れていることで希望としての力を発揮することになる。

何も絶望しないで、敵を愛し、善を行い、貸すということは、これらの行為に絶望しないことである。それは、敵を愛することを行い続けることであり、探求し続けることである。善を行っても何も良いことはないではないかと絶望しないで、行い続けることである。貸しても、感謝されない、恵みをもらえないと絶望しないで、貸し続けることである。これほどにラディカルな言葉はない。単に期待しないで貸すというようなことではないのだ。常に、望みから離れて生きることである。簡単に望みを手に入れようとしないことである。望みが手に入らないと切り捨てないことである。望みから離れて、希望を先において生きることである。これが絶望しないことである。

しかし、手にできる希望があるから頑張ることができるという人もいるであろう。手にできないことが確定したとき、絶望するのだと考えるのが人間である。しかし、それは手にすることができるという自分の計画が潰えたに過ぎない。それは絶望ではない。絶望は、希望を失うことである。希望を将来におけないことである。まして、手にできる希望は希望ではない。手にできないがゆえに希望である。希望は捉えられないが、捉えようと前に体を伸ばしつつ生きる力である。その力の中で生きているとき、我々は希望を生きているのである。イエスが「何も絶望しないで」と言うとき、望みから離れ、望みを手にしない状態で、生きることを勧めているのである。

しかし、我々はこう思う。敵を愛して、何になるのか。敵をつけ上がらせるだけだ。善いことをしたからと言って、誰も見てくれないではないか。人に貸してやるよりも、自分で隠しておいた方が失う危険がなくて良いではないか。何かをしたって、何も良いことはない。自分に得になることはない。だから、何もしない方が良いのだ。何も手にできないのだから。何も益にならないのだから。何も役に立たないのだから。こうして、我々は望みから離れていることができなくなる。手にできる望みを求めてしまう。それは希望ではない。欲望である。こうして、いと高き方の子から反転して、我々は欲望の子、罪人として生きるのだ。

自分に役に立つことばかりを求めることは欲望である。欲望からも離れなければならない。希望からも離れなければならない。望みから離れること、希望を永遠の中に置くこと、手に入るものを求めないこと、そのとき我々は純粋に希望を生きるのである。天の父も、手軽に手に入るものを求めないお方である。それが「憐れみ深い」と訳されている言葉の意味である。憐れみ深いとは胎の中に抱えることである。痛みも苦しみも抱えることである。弱さも愚かさも抱えることである。すべてを抱えることが憐れみ深いということである。それは手軽に手に入ることではなく、抱え続けてこそ胎の実も育まれるということである。従って、憐れみ深いお方は永遠に誰も悔い改めないとしても抱え続けてくださるお方である。それは永遠に希望を保持し続けてくださることである、胎の中に。

希望を生きるということは、自分が手にできるものを求める欲望ではなく、他者の役に立つ、他者に使ってもらえる存在として生きることなのである。それが「情け深い」と訳されている言葉の原意である。この言葉は、クレーストス「使用に耐える」「役に立つ」という言葉で、「役に立つ」ので「人が良い」となり、「情け深い」という意味も持つことになった。原意の通り、この言葉は他者の役に立つということであり、他者に使ってもらえるということである。しかし、天の父なる神が「役に立つ」というのはどうも変だと我々は思ってしまう。しかし、神は他者の役に立つこと、他者の使用に耐えることをこそ生きておられるお方である。それゆえに、いと高き方の子であるとはすべてを抱え続けることなのだと、イエスは言うのだ。

敵になった人間がご自分を愛さなくとも、絶望しないで愛し続ける。人間が誉め称えてくれなくても、絶望しないで善を行い続ける。感謝を返してくれなくとも、絶望しないで貸し続ける。このお方がいと高き方、天の父、イエスの父なる神である。絶望しないで愛し続けてくださる神の御子イエスは、十字架の上で絶望することなく、死に続けてくださっている。我々一人ひとりの罪を引き受けて。我々が悔い改めなくとも、赦し続けてくださっている。我々が罵っても、愛し続けてくださっている。イエスが言う「何も絶望しないで」とは、我々がイエスのように生きることである。イエスが生きてくださったように生きることである。望みから離れて、希望を希望として生き続けることである。そのとき、我々のうちにイエスは生きてくださっている。

我々が罪赦された後も、罪を犯し続け、悪を計画し続けているとしても、イエスはその体と血を与え続けてくださる。聖餐を欠かすことはない。我々すべてを胎に抱えてくださるように、イエスは赦しを与え続けてくださる。このお方が体と血を与え続けてくださることで、我々のうちに少しずつ少しずつキリストが形作られているのだ。あなたは、いと高き方と御子キリストとの憐れみのうちに生かされている。あなたが憐れみ深い者として生きることができますように、何も絶望しないお方の胎の中で。

祈ります。

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