「受け入れる蔵から」

2016年6月5日(聖霊降臨後第3主日)

ルカによる福音書6章37節~49節

 

「弟子は師を超えるものではない。しかし、すべてのあるべき姿にされている者は、彼の師のようであるだろう。」とイエスは言う。あるべき姿にされているとは、本来あるべき姿にされているということである。すなわち、弟子が師を超えないことであるが、それは弟子が師から受け取るべきものを受け取っている状態である。十分に師のものを受け入れているならば、その人の心の善き蔵は、師のもので満たされているであろう。すなわち、あるべき姿にされている者とは、自らの師のものを受け入れている心の善き蔵を持っているのである。その蔵から溢れ出てくるものは師のものである。だとすれば、イエスの弟子たちは、イエスのものを十分に受け入れているならば、それがあるべき姿なのである。

この姿は、その人がなろうとしてなれるものではない。何故なら、あるべき姿を受け入れることがなければ、なることはできないものだからである。なることができるようにと行うことは、純粋性を失っているので、ありのままに受け入れることがない。ありのままに受け入れるのは、目的を持たずにただ受け入れるのである。そのときには、その人は十分に受け入れているであろう。そして、あるべき姿にされているのである、受け入れることに集中しているがゆえに。

受け入れることに集中するのは、純粋に受け入れることだけを行っていることである。そのとき、その人の心の蔵には、師の善きものが満たされている。満たされている心の善き蔵から、溢れ出てくるのである、師の善きものが。従って、溢れ出てくるために、受け入れるのではなく、溢れ出るまで受け入れるのである。これは、目的ではなく、純粋性に従った結果、溢れ出るということである。それがイエスが「取り出す」とおっしゃることなのである。

「取り出す」とは、心の蔵に満たされているものを取り出すのであり、取り出すべく必然的に取り出す。相応しいときに、相応しいところで、相応しい相手に対して、取り出すのだ。それが、溢れ出すことである。溢れ出すと言うと、自動的に出てくるかのように思える。取り出すと言うと、意志的に取り出すように思える。しかし、取り出すべきときに取り出すのは、溢れ出ることなのである。何故なら、取り出すべきときを、我々は判別しないからである。むしろ、相応しいときに溢れ出ると言った方が相応しい。このときに、取り出そうと考えるならば、目的をもった作為的な行為になる。これがこの人に相応しいもの、相応しい師の言葉だと、わたしが取り出すならば、それはわたしの作為によって、取り出されたものになる。そして、わたしが相応しいと判別したことだけが取り出される。そのような取り出しは、わたしが相手にこれを与えようとしているので、純粋性を失っている。むしろ、師の言葉自体がわたしを通して、その人に向かって溢れ出すということにならない。それでは、わたしの判断、わたしの言葉、わたしの思考によって、相手を何とかしようとすることになるのだ。それは、相手をわたしの支配下に置こうとすることに陥ってしまう。わたしは、何者でもないのだ。わたしは、師に使われる者である。わたしは、師の言が溢れ出す媒体でしかない。それなのに、わたしが自分の心の善き蔵から選び出すとしたら、わたしの判断でしかなく、師がその人に必要だと判断するものは与えられなくなる。こうして、我々は自分の支配の下に他者を置くことになるのである。それでは、師を超えようとすることになるのだ。我々は師を超える者ではないのに。

裁くということも、同じように、わたしの判断で裁くのであり、それでは真実に神の裁きを受け取っていない、わたしは。わたしが裁く存在になっているのだから、神を超えようとしていることになるのだ。我々は神ではない。だから、我々が我々の判断で、他者を裁いてはならない。もちろん、神の律法があり、その基準に従って、我々は他者を裁くのだと考えるであろう。しかし、神の律法は他者に適用されるのではなく、律法を聞くわたしに適用されるのだ。従って、誰かが神の律法を持って、この人はそうなっていないではないかと判断する場合、その人自身が神の律法になってしまっている。それが自分を神とすることなのである。その人が裁く基準だと受け取る基準は良いが、その基準はその人自身に適用されなければならないものなのだ。

だから、他者の目のおが屑を取ることは我々にはできない。おが屑を見ている我々の方が、丸太の挟まった目で見ているからである。わたしがおが屑と思っていたものが、実はわたしがおが屑だと考えていることでしかないのだということを分かっていないのがわたしなのである。これが我々自身の問題である。この問題を蔑ろにしては何も前に進まない。我々自身が自分に適用すべきものを他者に適用するがゆえに、何も前に進まないのだ。我々自身が「悪い木」だと分かっていないことが問題なのである。我々が他者を裁くときには、我々は自分が良い木だと思い込んでいる。思い込んだとき、そこから離れられないのが罪深い人間である。それゆえに、我々はどこまでも他者を裁く者として生きることになる。これが、今日イエスが我々に語ることである。

我々は自分自身を神の言に従わせるのではなく、他者を神の言に従わせようとする。自分が従っていないことは棚に上げて、他者を従っていないと裁く。こうして、我々の裁きは自分自身を遙か高きところにまで持ち上げる。こうして、我々は自分が裁き主であるかのように生きて、裁かれるべき存在となる。それが「わたしが語ることを行わない」とイエスが言う我々なのである。「わたしの言を聞いて、行う者」とは、自分がイエスの言を聞くのであり、イエスの言に従えない自分を知って、イエスの前にひれ伏す者である。これを自分が行っていると自負する者は、行っていない。何故なら、イエスの言は我々が行い得ない言だからである。

イエスの言ロゴスは、イエスが語り、イエスが起こす出来事である。それに従うのは、「わたしが行っています」と言う者ではない。むしろ、「わたしはあなたに従わない者です。」と自らの罪を告白する者である。わたしは悪い木ですと告白する者である。わたしは良い実を結べませんと告白する者である。その人は、他者にイエスの言を語るのではなく、自分自身に語る。自分自身に語られたイエスの言が働いて、我々を神の前に、イエスの前にひれ伏すしかない者とする。そのとき、我々はイエスの言を聞いて、行っている。イエスの言を受け入れて、受け入れた蔵から溢れ出る言葉を語っているからである。「わたしは罪深い者なのです」と。

このようなところへと我々を導くのは、イエスの言である。我々の心の善き蔵に受け入れられたイエスの言である。イエスの言が溢れ出て、他者に語る言葉となるのは、我々自身がイエスの言に生かされているときだけである。我々自身がイエスの言に裁かれているときだけである。我々自身のうちに蓄えられたイエスの言が働くのである。我々が、溢れ出させるのではない。イエスの言が溢れ出るのである。これが信仰の出来事なのだ。従って、我々は何者でもない。何者かであると主張することもできない。何者でもないわたしに語りかけてくださるイエスの言を十分に受け入れているならば、わたしの心の蔵は善き蔵である。そこから、善きものが溢れ出す心の善き蔵である。その蔵は、受け入れる蔵であり、受け入れる蔵から神の善きもの、イエスの善きものが溢れ出すのだ。

我々自身が罪深くとも、我々が受け入れたイエスの言、神の言は真実である。我々が悪に満たされていようとも、神の言は善である。我々が罪に支配されていようとも、神の言が我々を支配し給う。最終的に、すべてが刷新されるまで。

今日、共にいただく聖餐は、この刷新する神の言を我々の体の中に受け入れることである。神の恵みであるキリストご自身を我々のうちに受け入れることである。あなたのうちから、キリストの言が溢れ出すようにと与えられる聖餐を通して、あなたがキリストの器とされていく。感謝して受け、キリストに生きていただこう、わたしのうちに。あなたの受け入れる蔵から溢れ出すまで。

祈ります。

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