「ただロゴスによって」

2016年6月12日(聖霊降臨後第4主日)

ルカによる福音書7章1節~10節

 

「しかし、ロゴスを言い給え。」と百人隊長は言う。「ロゴス」とは「言葉」であるが「出来事」である。「ロゴス」によって「出来事」が生じる。それゆえに、百人隊長は言うのだ「しかし、ロゴスを言い給え」と。そうすれば、「ロゴス」に従って、何事かが起こると。

「ロゴス」はある権威の意志である。百人隊長はある権威の下にある。それゆえに知っている、「ロゴス」がすべての出来事を生じさせるのだと。「ロゴス」によって「行く」ことも「来る」ことも生じると。それは、「行く」人間の意志でも「来る」人間の意志でもない。ただ「ロゴス」を語る権威の意志なのだ。権威が語るがゆえに「ロゴス」は出来事を起こす。起こった出来事は「ロゴス」ゆえに存在する。この必然を百人隊長は知っているのだ。それゆえにイエスに求める、「しかし、ロゴスを言い給え」と。

この「ロゴス」はイエスの意志である。では、百人隊長がイエスの意志を求めても、百人隊長の求める意志とは異なっているかも知れないではないか。それでは百人隊長が求めた僕の癒やしは生じるとは保証されない。それでも、イエスが彼の前にいるということにおいて、イエスの意志は百人隊長の僕の癒やしを志向していることは確かである。そうでなければ、ここに来ることはなかったであろうから。それゆえに、百人隊長は言うのだ。ここに来てくださったのであれば、ただあなたの意志だけが重要なのですと。それだけで十分なのですと。

十分ということは、満たされていることであり、相応しいことであるという意味である。それは、ユダヤ人の長老たちがイエスの許に派遣されて言う言葉に語られている。「彼は、このことを実行していただくような価値ある者である」と。ここで長老たちが言う「価値ある者」という言葉は、アクシオスというギリシア語で、「重さ」を表す。量りに乗せられる重りを表す言葉であるがゆえに、長老たちは言うのだ、「この人は十分な重さがある」と。しかし、百人隊長はイエスに言う、「資格はない」と。それはヒカノスというギリシア語で「あるところに達している」という言葉であり、それが否定されているのである。百人隊長自らはイエスが自分の家の屋根の下に入っていただくところには達していないと言っているのである。達していないという認識が彼に生じていることが重要なのである。

我々は十分に恵みを受けるに値するとか、そこまで達していると思うとき、恵みを交換価値に貶めるのである。恵みとは純粋な贈与であるから、自分が受けるに値すると考える時には、贈与ではなく自分の価値と与えられるものとの交換になる。それゆえに、恵みではなく、単なる交換価値となる。そのとき、我々は自分が恵みに十分であるという傲慢の中にいるので、恵みを恵みとして受けることができない。それは恵みではないので、この世の価値の交換でしかなく、この世の価値を超えた超自然的出来事は生じない。この世の価値の中でしか受けることはできない。それゆえに、死に瀕している者が生きることはないのである。死に瀕している者は死に向かうのがこの世の価値の限界である。これを超えるのは、この世の価値を超えた出来事でしかない。その出来事を百人隊長は求めた、イエスに。それゆえに「しかし、ロゴスを言い給え」と言ったのだ。すなわち、あなたのご意志に従ったロゴスが語られるならば、わたしの意志に従ったこの世の価値を超えた出来事が生じると、百人隊長は語っているのである。これは、信仰告白である。

これはジャック・デリダが「赦すこと」という本の中で語っていることである。赦される価値のある者が赦されることは赦しではないと。赦されざる者が赦されるがゆえに赦しであり、それは純粋な贈与と同じであると。赦される価値がある者が赦されるのであれば、それは赦しと価値とが交換されただけであり、赦しは赦される価値と等価である。しかし、赦されざる者が赦される場合には、赦しはその人の価値と等価ではなく、その人の価値を超えている。それゆえに、赦しは矛盾している。赦されるべき者が赦されるのは赦しではない。赦されざる者が赦されるがゆえに赦しである。赦されざる者が赦されるという矛盾、アポリアが生じる。そこにおいては、この世の等価価値を超えた出来事が生じていると言える。従って、赦しとはこの世の交換価値とは言えず、この世の価値を超えた出来事であるということである。これと同じことが、百人隊長が言う言葉、「わたしはヒカノスではない」なのである。

「わたしは達していない」と百人隊長が言う言葉において、彼は受けるに値しない者として自らをイエスに提示している。「しかし、ロゴスを言い給え」と言うのだ。それゆえに「しかし」とあえて言わざるを得ない。「だから」であれば順接であるが、「しかし」は逆接だからである。すなわち、自らの価値とは逆であるが「しかし、ロゴスを言い給え」と求めるのである。それゆえに、百人隊長は彼自身のこの世の価値を超えた出来事ロゴスを求めたと言えるであろう。彼が「しかし」と言ったことには重要な意味があるのである。彼自身の価値、彼の僕自身の価値、この世の判断、それらを超えたところで語られるロゴスを求めた百人隊長。彼が求めたのは、ただイエスの意志である。イエスの意志に従うということだけである。それゆえに、たとえイエスが意志しないとしても彼は受け入れたであろう。信仰とはそのようなものである。

信仰を与えられていれば、すべてのことが自分の思うように動いていくのではない。信仰を与えられた者には、すべてのことが神の意志に従って動いていくことが承認されているのだ。それゆえに、如何なることが起ころうとも、神の意志として受け入れる準備がなされているのが信仰なのである。それゆえに、信仰があれば何でも上手くいくと考えることは信仰を自分の道具とすることである。信仰があれば、わたしは神の意志に従わせられるのである。それゆえに、信仰はわたしの意志でもわたしの力でもなく、神の意志であり神の力である。神がわたしに与え給い、わたしを神のものとして生かし給う神の御業である。

百人隊長は、この信仰を与えられていた。どのようにして与えられていたかは分からない。しかし、イエスが認めた通り、彼の信仰は確かに「イスラエルの中で、これほどの信仰をわたしは見出さなかった」ものなのである。なぜなら、イスラエルの長老たちは、百人隊長が価値ある者だからイエスに来てもらうように願ったからである。そこには交換価値しかないのだ。交換できない価値、純粋な恵みはないのだ。百人隊長はこの純粋な恵みとしての癒やしを求めたが、しかし彼はただイエスの意志に委ねた。これが信仰なのである。

我々は、自分に力が与えられ、苦難を乗り越えられるようにと祈る。しかし、最終的にはわたしの祈りではなく、イエスの意志があること、イエスのロゴスに従ったことだけが生じるのである。それゆえに、イエスはゲッセマネで祈った、「わたしの意志ではなく、むしろあなたのものが生じますように」と。これが信仰である。これは究極の祈りである。百人隊長はこのイエスの地点に立っているのだ、イエスの前で。

イエスは「わたしは意志する」とは言わず、ただ「イスラエルの中で、これほどの信仰をわたしは見出さなかった」というだけである。イエスの意志が語られずとも、百人隊長の僕は癒やされていた。それはイエスの意志ロゴスが口の言葉で語られずとも癒やされたのであり、信仰においては神の意志、イエスの意志がすべて実現するということである。ロゴスは口の言葉としても語られうるが、口の言葉ではない。それは意志なのであり、意志は語られずともあるのだ。神の意志、イエスの意志にすべてを委ねた百人隊長の信仰は、神が与え、委ねさせる信仰であった。それゆえに、神の意志によって僕は癒やされたのである。

我々もまた、このような信仰を与えられている者として、神の意志にすべてを委ねよう。神の意志こそが真実に価値あるものなのだから。

祈ります。

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