「門」

2016年6月19日(聖霊後第5主日)

ルカによる福音書7章11節~17節

 

「彼は向かった、ナインと呼ばれる町へ。」と言われている。ナインとはヘブライ語ナーアーを語源とする名、「喜びの場所」、「住まうべき場所」という意味である。イエスは住まうべき場所、喜びの場所へと向かった。しかし、その門に近づいたとき、悲しみの葬列に出会う。やもめの独り息子が死んでしまい、運び出されていた。喜びの場所に近づいたイエスが、その門で出会う、死者に。門は、出るところであり、入るところである。死者は出ていく。生きている者は入る。門において、死といのちが出会う。死はいのちに呑み込まれるために出て行く。死はいのちを受けるために出て行く。この世からいのちのうちへ。

イエスは葬列の棺に手を触れて言う、「若者よ、汝に我は言う。汝起こされよ。」と。死者は再び座して、語り始めた。生きているということは語ることである。語るとき、我々は生きている。死んでいる者は語ることがない。生きている者が語る。生きている者の語りはいったい何だろうか。何でも良いのだ。とにかく語る。何であろうとも語る。それが生きていることである。それは彼が意志を持っているということである。意志に従って語ることである。意志が語りとなって溢れることである。

我々は語ることにおいて生きている。人間は言葉の生き物である。言葉が我々を人間とする。それゆえに、若者は語り始める。人間であることを現し始める。母は、息子が語る言葉が何であろうとも、その声を聞き、その言葉を聞くことによって、彼が生きていることを確認する。我々は語ることで生きている。語ることがいのちである。イエスは若者に言をもっていのちを吹き込んだ。イエスの言が死者にいのちを吹き込んだ。イエスはいのちを吹き込むために、門から入る。門から入るために、門に近づく。門から入って、喜びの場所に生きるためにイエスは来たのだ、ナインに。

イエスが門から入るナインという町の名は「喜びの場所」という意味だが、また「牧草地」という意味でもある。羊が豊かないのちに与る場所、牧草地ナイン。その場所から出ていこうとするやもめと若者に出会ったイエス。出て行く必要はないとイエスは彼らの棺に触れる。触れることで、彼らが出て行くことを押し止める。出て行く必要はないと押し止める。

門から出て行こうとしていた二人は、イエスによって門の中へと押し返された。イエスは死を押し返すお方。死を出て行かせないお方。死に触れるお方。イエスは死に触れ、押し返し、喜びの場所、牧草地へと再び導き入れるお方。このお方に出会うのは門である。門は開かれている。門は出て行くものではなく、いのちへの入口。いのちに与る境界線。門によって、死へ出て行こうとするいのちがいのちの主に出会う。この門はどこにでもある。喜びの場所から出ていこうとするとき、そこにある。喜びの場所から出て行かざるを得ないとき、そこに門がある。イエスはそこにおいて、我々のいのちを押し止める、真実のいのちへと。

我々の現実の死においても、イエスは押し止めるお方である。イエスが死を押し止め、死を引き受け給うた。死を引き受けたがゆえに、死を越えるお方。十字架は、町の外に立っている。町の外で屠られたイエス。しかし、町の中へと入っていく、いのちを与えるために。いのちは門から入る。いのちは門から生まれる。いのちは門において押し止める。我々を神のいのち、復活のいのちに押し止める。イエスは死を引き受け給うたがゆえに、死を越えて、死を足の下にして、働かなくする力がある。使徒パウロが言うごとく、最後の敵、死がイエスの足の下で働かなくされる。イエスの足の下で、我々は救われる。イエスの足が踏み行く先で救われる。ナイン、喜びの場所において救われる。ナイン、牧草地でいのちに与る。ナイン、住むべき場所において我々は住まう。イエスが入り行く場所ナインに、我々の住まうべき場所がある。

ナインにおいて、喜びの場所が回復された。ナインにおいて、牧草地が守られた。ナインにおいて、死は克服された。呼び出された若者がやもめに返される。やもめの闇が取り除かれる。門からいのちが入り行く。門から喜びが凱旋する。門から入り、いのちの場所に導くために。

いのちに与った者は語る者とされ、語ることで生きる。動くことで生きるのではない。語るべき意志がその人のうちにあることで人は生きているのだ。生きている意志が言葉となって溢れ出る。イエスに回復されたいのちの意志が言葉となって溢れ出る。溢れ出たいのちが世界を豊かにする。このいのちは固定されない。固定されたいのちはいのちではない。固定されない、生成するいのちがいのちである。固定されないいのちには、死ぬことも生きることも可能である。死ぬこともいのちであり、生きることもいのちである。死も生もいのちの姿。住むべき場所に生きるのがいのちなのだから。地上に生きている間は地上に生き、地上を離れたならば離れて生きる。それが生きるということの真実である。そのとき、死は恐れるべきものでなく、喜びの場所をそこにも見出す。死んでもなお生きるとは、そのようないのちの姿。

このいのちの姿はイエスによって呼び出される。イエスが呼ばなければ、我々は死を死んでしまう。いのちを失ってしまう。死を越えても生きるイエスが呼ばれなければ、我々は死を終止符としてしまう。しかし、イエスは門にて呼び給う。出て行こうとするときに呼び給う。死者の国に赴こうとするときに呼び給う。「起こされよ」と。死んでもなお、起こされる。再び座すことができる、いのちのうちに。再び座すことができる、喜びの場所に。ナインに座すことができる、若者のように。やもめもまた、ナインに座す。喜びに座す。

やもめも出て行こうとしていた、死の国へと。独り息子を失った彼女には、これからの人生は死と何も変わりない。死の国へ行こうとも、地上に残ろうとも、彼女にはいのちの喜びはない。喜びの場所、牧草地はない。あるのは不毛な地、悲しみを与えるナインの町。ナイン喜びの場所が、彼女には悲しみを思い起こす場所となる。それゆえに、彼女も門を出て行こうとした。出て行こうとした門でいのちの主に出会った。これは神の必然である。神が彼女に出会い給うた。出会うために門に近づき給うた。門において神は出会ってくださる。境界線上で出会ってくださる。「起こされよ」と出会ってくださる。出会うためにイエスは門に近づくのだ。境界線に近づくのだ。十字架は生と死との境界線上に立っている。町の外に立てられた十字架は生と死の境界線である。死を押し返す境界線である。境界線の上で、イエスは死に向かって言う。「越えてはならない。」と。神ヤーウェがヨブに語ったように。「ここまでは来てもよいが越えてはならない。高ぶる波をここでとどめよ」と。死を止める神の力は、門において発揮される。境界線上で発揮される。人間では越えることができない場所で発揮される。人間の絶望の淵で発揮される。人間が力なきことを認めた場所、門で発揮される。神の前にひれ伏す場所で発揮される。

神の力は門において行使される力。越え行く波を押し止める力。越え行く悪を働かなくする力。この力のうちにあって、我々は救われる。神の力によって救われる。「若者よ、汝に我は言う。汝起こされよ。」とイエスは語り給う。語ることで、語る力を呼び覚まし給う。イエスの語りが、我々の根源。我々の語りの根源。我々のいのちの根源。イエスが語ることがすべての出来事の源。イエスが語る言葉こそがいのちを呼び覚ます。「汝起こされよ」と呼び覚ます。

我々起こされた者たちは、喜びの場所、牧草地、住まうべき場所に生きている。いのちに与り生きている。あなたが生きるために、いのちの門から入り給うイエス。いのちの門から出て行く者を押し止め給うイエス。死の支配に入らんとする者をいのちに連れ帰るイエス。このお方がおられるかぎり、我々にはすべてが可能である。このお方の体と血が我らに語り給う「汝起こされよ」と。祈ります。

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