「愛を創る力」

2016年6月26日(聖霊降臨後第6主日)

ルカによる福音書7章36節~50節

 

「彼女の多くの罪たちは赦されてしまっている。何故なら、彼女が多く愛したから。」とイエスは言う。この町において罪人である女がいた。その女が、イエスの足を涙でぬらし、拭い、香油を注いだ。これを見ていたファリサイ派の人シモンが自分の中で言う「この人が預言者であるならば、彼に触れている女が誰で、どのような存在であるかを認識した。」と。イエスは預言者ではないと判断するシモンの思いに応えて、イエスは一つのたとえを語り、シモンに答えさせている、「多くのものを彼が赦した方」だと。多く愛するのは、貸した人が多くのものを赦した方だというわけである。この言葉に従って、イエスは言う「わたしはあなたに言う。彼女の多くの罪たちは赦されてしまっている。何故なら、彼女が多く愛したから。」と。たとえの答えでは「多くのものを彼が赦した方」と言われ、目の前の女については「彼女の多くの罪たちは赦されてしまっている。何故なら、彼女が多く愛したから。」と言われる。たとえでは「彼が多くのものを赦した」存在によって多く愛される赦しの主体が語られている。しかし、目の前の女は「多く愛したから」という赦された客体として語られている。赦しの主体が愛されるということを語るたとえから、赦された客体に移行している。赦された客体が愛する主体になっているのである。愛するということが、赦された存在を証しするとイエスは言う。愛は赦しの結果であり、赦しが愛を創造するとイエスは語るのである。赦しとは愛を創造する力であるとイエスは言うのだ。神の赦しが愛を創造する力である。

シモンの女を見る目には愛はない。差別がある。シモンは赦される必要を感じていない。何故なら、赦される存在は罪を犯している存在だからである。シモン自身は罪を犯しているとは思っていないのである。ところが、イエスの論理から言えば、シモンは愛することができないことになる。シモンは、たとえで言えば少なく赦された存在、あるいは赦される必要のない存在だからである。それゆえに、イエスのたとえにおいて、シモンは自らを赦す主体において答えている。シモンは赦される客体とは考えていない。そこから、イエスに触れる女を罪人である女だという認識でイエスを判断しようとしているのである。罪人が分からないようでは預言者ではないと。従って、シモンはこのイエスと女の出来事を見て、判断する主体である。イエスをも判断してしまう主体なのである。シモンは自らを赦されるべき存在だとは思っていないということである。シモンが赦す主体だと自らを見ているがゆえに、イエスは赦す主体が愛されるのはどちらの人間からかを問うのである。この方がシモンの状態に合っているからである。ところが、たとえの答えから赦されるべき客体である女に移行したとき、愛される客体はイエスだということになり、シモンは愛されていないことが示されている。主体から客体に視点が移動したとき、赦す主体がどちらであるかが明らかになる。多く愛されているイエスが女を多く赦しているということになるのだ。シモンが愛されないのは、シモンが赦していないからであるとイエスは語っていることになる。そして、愛と赦しの関係を一般化して、イエスは言う「少なく赦される者は、少なく愛する」と。それから、女に宣言する。「あなたの多くの罪たちは赦されてしまっている」と。ここにおいて、イエスは自らが赦す主体であるとは語っていない。赦すのは神であると語っているのだ。何故なら、イエスの言は受動態だからである。イエスが赦すのではなく、神の赦しをこの女が受けているということを宣言しているのである。女の愛の対象としての赦しの主体を神としている。女の愛が神に向かっていることを語って、自らへの女の愛を愛の一般化として語っているのだ。さらに、女の行為とシモンの行為との比較を述べることによって、シモンが少なく赦されている存在であると語り、シモンを赦されるべき存在としての女と同じ位置に置くのである。シモンも神の前にあっては、女と同じであると宣言し、少なく赦されてしまっているがゆえに、少なく愛するのだと宣言してしまったことになる。ここにおいて、シモンは女と同じ位置に置かれる。

しかし、シモンは赦される必要を感じていない。シモンは赦す側、判断する側だと思っている。そして、赦さないのだから、愛されないことに陥っている。これが問題なのである。赦さないということが愛されないことであるというたとえの帰結から言えば、シモンが愛されないのは赦さないからだということである。そして、イエスはシモンを赦されるべき存在として女と同じ位置に置くのであるから、シモンが赦しを受け取っていないことが確定されてしまう。つまり、自らを赦す側、判断する側に置く存在は、赦されていないということである。

愛という出来事は赦しが創り出す出来事だとイエスがたとえで語ったことが、シモン自らの状態を確定している。シモン自身がそれを判断したのだ。シモンは自らの答えにおいて、自らを愛さない存在として確定した。赦されていない存在として確定した。イエスはシモンに赦されるべき存在であることを知って欲しいのである。シモン自身が判断したように。愛が赦しの結果であると判断したシモン自身が、自らにその判断を適用することをイエスは願っている。

愛を創造するのは赦しである。神の前に赦されるべき存在として立つときに、我々は愛する者として創造される。実は、少なく赦されるなどということはない。赦しが愛を創造するならば、シモンはいまだ創造されていない、愛する者として。シモンは赦しを受け取っていない。それゆえに、自らを判断する側に置くのである。これが人間の問題である。

我々が赦しを受けなければならない自分自身を認めるならば、愛を創造される。愛する者として神によって創造される。愛するように創造される。しかし、判断する側、赦す側に立ち続けるかぎり、我々は愛することができない。しかも、赦しを与える存在を自分が分けてしまうとき、赦しは赦しではなくなっている。何故なら、赦しは赦されざる者を赦すものだからである。赦される価値がある者を赦すのは赦しではない。シモンが赦す相手を自らが判断しているかぎり、赦しを限定しているのであり、赦しの普遍性を理解していない。こうして、シモンは赦しの中に入ることなく、自らを赦しの外に置いてしまう。愛することの少ないという限定的愛の中に生きることになる。限定的愛は、限定的赦しの結果であり、限定されているので、愛も赦しも持ち得ていないのである。

イエスがたとえで問う「多く愛するのは彼らのうちの誰か」という問い自体が、シモンの考え方を表している。赦された存在が自らに与えられた赦しを完全に受け取っているならば、「多く愛する」とか「少なく愛する」ということにはならないはずである。そこでは他者との比較は生じないからである。自分と赦す主体との関係の中には他者が入ることはないはずである。他者との比較が入り込むことにおいて、結果的に赦しを受けていないことになるのである。何故なら、他者との比較においてはその人の目は他者に向かっているからである。比較しないとき、その人の目は赦しの主体に向かっている。そして、愛する者として創造されている。

女に神の赦しを宣言するイエスは、シモンが赦されるべき存在であることを宣言してもいるのである。また、その他の人たちも同じように、神の前に赦されるべき存在であると。赦しが愛を創造する力。赦しを受け取る存在は愛する存在として創造されている。パウロが言う通り、「愛は妬まない。自慢しない。高ぶらない。利益を求めない。」。それゆえ赦しも同じ価値を持つ。愛を創造する赦しは、愛と同じ価値を持っている。

我々が赦しを受けるべき存在として神の前にひれ伏すとき、如何なる人間も赦される。完全に赦しを受ける。赦しを受ける存在が愛する者である。十字架においてあなたの罪をキリストのものとしてくださる神。このお方の前にひれ伏すとき、十字架の愛があなたのうちに創造される。あなたは小さなキリストとして創造されるのである。

祈ります。

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