「告白の力」

2016年7月3日(聖霊降臨後第7主日)

ルカによる福音書9章18節~26節

 

「自分の魂をわたしのゆえに破壊する者は、それを救うであろう。」とイエスは言う。イエスのゆえに自分の魂を破壊するとはどういうことであろうか。それは自分の魂を捨てることであり、魂が働かなくすることである。魂の機能を破壊することである。ここで使われている魂というギリシア語プシュケーは「命」と訳されている。プシュケーは生きている自分自身そのものであり、生命の中心である。プシュケーがなければ、我々は自分自身であることができない。従って、自分の魂プシュケーを破壊するならば、自分自身であることを破壊することになる。それは、わたしがわたしではないようにすることであろうか。「自分を拒否し、日々自分の十字架を取り、わたしに従いなさい。」とも言われているのだから、自己拒否である。それは、自分を支配している自分を拒否することである。

しかし、自分を拒否する自分という図式は永遠に解決不能なアポリアを生む。自分を拒否する自分がいて、その自分を拒否する自分がいる。その自分を拒否する自分がいる。というように、永遠に自分が現れてくるのである。それゆえに、イエスは「日々自分の十字架を取って」とも語っているのだ。

イエスに従うことは日々のことである。我々が自分の十字架を取ることは、自分をまず拒否していなければ取ることができない。何故なら、自分の思いでは十字架を取りたくないと思ってしまうからである。自分を守りたいと思うからである。自分を失いたくないと思うからである。そのような自分を拒否することが、自分の十字架を取ることともつながっている。イエスに従うことは自己拒否において可能となるのである。

そのような一人ひとりが一致するのは、自己を守ることから解放された者を救うお方「神のキリスト」においてである。神のキリストという告白において一致するとき、我々は自分で自分を守らない者として、神のキリストの守りに与るのである。キリストがわたしを守り給うのだから、我々は自分を拒否する。キリストがわたしを救い給うのだから、わたしは自分を拒否する。自分が取りたくない十字架をあえて取る。日々、十字架を取る。それは、架けられたくない思いを、殺されたくない思いを、認められたい思いを拒否して、十字架を取ることである。

しかし、我々が拒否する場合、先のように自分が永遠に現れてくる。永遠に現れる自己を拒否するのは、永遠に変わることなき神の力によらなければならない。何故なら、我々人間はひととき拒否したとしても、これが永遠に続く場合、面倒になって、拒否することを止めてしまうからである。自己を拒否することには力が必要である。その力こそが、神のキリストであるお方を告白することから来たる力である。キリスト告白の力が、我々を日々十字架を取るようにと力づけるのだ。キリスト告白がなければ、我々はいつでも自分を守るところに簡単に戻ってしまう。自分が認められるところに戻ってしまう。認められなくともキリストに従って行くところに立ち続けることは、我々人間の力では不可能なのである。人間を安きに引きずり込む力のなんと強いことであろうか。悪の力、サタンの力は、我々が安心しているときに、容易く引きずり込む。だからこそ、我々はキリスト告白を毎週告白しなければならないのだ。告白の力によって、我々は自己拒否に生きることができる。そのために、毎週の礼拝が与えられているのだ。

我々は自分を拒否しないで他者を拒否する。自分を拒否しないで神を拒否する。自分を否定しないで他者を否定する。自分を否定しないで神を否定する。他者と神を拒否し、否定することで、自分を守る。こうして、我々はわたしの世界を作り出してしまう。イエスが問うた人々の見解は、それぞれの人間の自分の世界の見解である。自分の思いの世界がさまざまにある。それが自分の世界である。全世界を手に入れようとする自分の世界である。全世界を自分の思いに従わせようとする自分の世界である。自分の世界などないのに、全世界を自分のものにしようとする。我々は自然的にそうしてしまうのだ。それが悪の働きであり、サタンの働きである。罪に浸った人間は、自然的にそうしてしまうのだ。それが罪人としての人間の自然の姿なのだ。この自然の姿を破壊するのはキリスト告白である。自分を守るのは自分ではないと告白するのがキリスト告白である。自分を救うのは自分ではないと告白するのがキリスト告白である。キリスト告白の力によって、我々は自然的姿を捨てることができるのだ。キリスト告白によって、我々は自分を拒否するからである。キリストが救い給うと信頼するからである。そのとき、我々はキリスト者として生きるのである。

イエスが言う「わたしとわたしの言を恥じる者」とは、自分を守る者である。自分を拒否せず、イエスとイエスの言を恥じて拒否する者である。イエスとイエスの言を恥じて拒否するのだから、イエスとイエスの言と一つにならない。それゆえに、キリストのものとして生きることはない。キリストのものとして生きることがないのだから、キリストから恥じられることになる。自分がキリストを恥じているということは、自分がキリストによって救われることを恥じているのである。自分が自分を救えないことを恥じているのである。それゆえにキリストが差し伸べている手を掴むことはない。キリストを拒否しているのだ。自分を拒否せず、キリストを拒否する。それが罪深い人間の自然的姿である。

自分を救えないような自分を恥じていることで、神を恥じ、キリストを恥じ、自分を誇っている。そのような者がキリストに救われることはない。自分が拒否しているのだから、当然である。それで良いのだと生きているのだから、終わりの日にもキリストによって救われることを潔しとしないで、あくまで自分の力で救われようとする。こうして、終わりの日まで自分の世界を保持し、永遠に神の世界、神の支配、キリストの救いを受けることがない。

こうなってしまってはどうにもならない。自分で救われる力があると思うのなら、そうすれば良い。最後の日までそのように生きていけば良いのだ。キリストを拒否して生きていけば良いのだ。それが罪人としての一貫した生き方なのだから。自分が支配する世界に生きて、神の支配する世界に生きない。それだけなのだから良いではないか。たとえ滅びても、自分を守ることができるのだから、それで良いではないか。それが罪人なのだから、それで良いではないか。

確かにその人はそれで良いであろう。しかし、その人を造り給うた神はそれで良いとは思わない。何とかして救いたい。それゆえに、キリストを遣わし給うたのだ。一人でも救いたいがゆえに、キリストを十字架に架け給うたのだ。この神の思いを受けるのはキリスト告白の力である。日々悔い改めるのはキリスト告白の力である。キリストの言が語られ続けるのは、神の救いたいとの意志が継続されているからである、終わりの日まで。この神の意志を聞く耳が開かれた者が聞く。開かれなければ聞かない。開かれないのは、自分で救われようとするからである。自分の力に頼るからである。自分を拒否しないからである。神を拒否し、キリストを拒否するからである。それゆえに、キリスト告白の力がなければ我々は救われない。自分の魂を、自分自身を救うことはできない。キリストさえも、告白しない者を救うことはできない。語り続けてもなお、耳が開かれないからである。

しかし、あなたは幸いである。耳を開かれているあなたは幸いである。自分を拒否するあなたは幸いである。キリストを告白するあなたは幸いである。礼拝において語られるキリストの言を聞き続けるあなたは幸いである。福音と聖礼典に与り続けるあなたは幸いである。今日もキリストはご自身の体と血をあなたに与え給う。キリスト告白の力を保つためにご自身を与え給うキリストに感謝しよう。あなたのうちにキリストが形作られるように、ご自身を与え給うキリストの理性が、あなたのうちに保たれますように。終わりの日に向かって、告白の力のうちに生きていこう。

祈ります。

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