「所有を離れて」

2016年7月10日(聖霊降臨後第8主日)

ルカによる福音書9章51節~62節

 

「しかし、人の子は頭を横たえる場所を持っていない。」とイエスは言う。人の子は場所を所有していない。人の子は場所を占有していない。それゆえに場所に縛られない自由を生きている。この自由を生きるには所有から離れる必要がある。所有すること、占有することによって、我々は自分が生きて行くことができる安定を確保しようとする。場所の占有、家財の所有、地位の獲得。これらは我々が自分自身で確保すると考えるものである。しかし、人の子イエスは確保しない。確保すれば、確保したものに確保される。縛られて抜け出せなくなる。抜け出せない者が抜け出させないように他者を縛る。こうして安心を確保する。これが人間の罪である。

安心は人間が確保することなのか。人間が縛り合うことなのか。縛りあった末に、争いが生じ、侵略が生じる。自らの所有の確保と拡張が延々と継続され、世界は窒息する。命は窒息する。人間は自らを窒息させるように生きる。神ヤーウェが「あなたは死を死ぬ」とアダムに語った通り。我々は自ら知恵を獲得しようとして「死を死ぬ」ことを招き入れてしまった。神のように世界を支配しようとして死を死ぬようになってしまった。我々は堕罪の初めからそのようになってしまっているのだ。

そのような人間がイエスに従うことなどできない。彼らは自らの場所を確保してイエスに従うのだと勘違いしている。「あなたが出て行かれる如何なる場所にもあなたに従います。」と言う。「出て行く」のだから今いる場所を離れるのではある。しかし、別の場所にイエスが行くのだと思っている。その場所に従って行くと考える。しかし、イエスは頭を横たえる場所を持たないのだから、向かう場所は地上にはない。家もなく、家財もなく、あるのはただ神が生かし給う魂であるわたしのみ。それがイエスの生である。このイエスの生に従う者は自由である。しかし、場所に従って行くと考えるならば、不自由である。せっかく場所を離れたのに、再び場所を確保するようになる。我々は教会に居場所を求めるが、それは間違いである。教会は居場所ではない。教会はイエスの言に従って生きることを始める者が集められる出来事である。それゆえに、教会における居場所などを求めることは間違いである。所有から離れて、神によって教会に集められたのに、代わりの所有を教会で見出そうとする。これが「あなたが出て行く如何なる場所にもわたしはあなたに従います」と言う人が考えていることである。それはまた、居場所のない人間が別の居場所を探すためにイエスを利用することである。イエスは誰かの居場所を与えるお方ではない。誰もが所有を離れるようにと導くお方である。それゆえに「わたしに従いなさい」とおっしゃるのだ。イエスに従うのであって、イエスが行く場所に従うのではない。イエスが行く場所があなたの居場所なのではない。イエスご自身があなたと一つになって生きてくださることがイエスに従うことである。それゆえに、教会には居場所はない。あなたが生きるのはこの世なのだ。教会は一人ひとりをイエスが自由にする出来事なのである。教会は自由にするための出来事であり、居るための場所ではない。みことばに従って、この世へと派遣されていくのがキリスト者なのだ。「あなたは出て行って、神の支配を告げ知らせなさい」とイエスは言う。所有を離れて、神の支配を告げ知らせることが、イエスに従うことである。

イエスに従う者は「神の支配を告げ知らせる」者である。神の支配はどこにでもあると告げ知らせる者である。神の支配がすべてを包んでいると告げ知らせる者である。その人は、自らの所有である家から出て、この世へと告げ知らせる。所有を離れていなければ告げ知らせることができないとイエスは言う。我々が所有を離れるということは、家や家族や兄弟姉妹や土地を手放すことである。しかし、我々はキリスト者としてそれらを手放しているのだろうか。何も手放さず、今までの生き方を継続しながら、イエスに従っていると考えている。我々はイエスに従っているのだろうか。手放せない思いを抱えながら、手放さず、互いに縛り合っている。それでイエスに従っていると思っている。我々はイエスに従っていないのだ。何も捨てていない。何も手放していない。所有を確保しながら、イエスに従う道を探している。二人の主に奴隷となる方法を探している。我々はキリスト者ではない。誰も完全にキリスト者とはなり得ていない。洗礼を受けていても、洗礼を受けたように生きていない。キリストと共に死んだはずなのに、未だ死に切れていない。

我々は自らを正しく認識しているのだろうか。誤魔化しているのではないのか。わたしが教会で居場所を確保して、自分に居心地良い教会を作って、キリスト者だと思い込んでいる。それはルターが言う「夢や幻」ではないのか。所有しつつ、イエスに従うことはないのだから。これほどに、罪は我々を洗礼後も陥れる。生きていかなければならないのだから、多少の所有は必要なのだ。所有しないのではなく、少なく所有すれば良いのだ。生きていくためには、必要な悪なのだと、自分に言い聞かせている。しかし、イエスは言う。「手を鋤の上に投げて後ろを見る者は誰でも、神の支配の適切に置かれた者ではない」と。二心ある者は神の支配の中で適切に置かれていないと言うのである。何故なら、自分で置かれる場所を設定しようとするからである。それゆえに、神の支配に完全に服していない。いや、全く服していない。神の支配に完全に服することは神が置き給うように置かれて生きることである。自分が自分のための居場所を確保することではない。どこまで手放して、どこまで所有するかを自分が決めることではない。そのような人間は神と富の両者に奴隷となるようにしようと考える者である。それは不可能であるとイエスはおっしゃったのに。

我々はキリスト者なのか。キリストに従っているのか。キリストが所有を離れ、すべてから解放されて生きたように、生きているのか。我々はいつまでも自らの所有を離れられない。どこまでも自分の居場所を求める。どこにでも所有を、居場所を確保しようとする。こうして、我々は神の教会ではなく、人間の教会を作ってしまう。人間とはどこまでも罪人である。救われ難い罪人である。

弟子たちもイエスを拒否する者たちの上に天からの火が下るように、彼らを滅ぼすようにと自分たちが言うことを、イエスが望むかとイエスに問うのだ。キリストに従っていると思っていた弟子たちでさえも、自分たちの居場所を確保するために、他者をそこから滅ぼそうとする。彼らもイエスに従っているのではない。自分たちの所有を拡張しようとしているのだ。これはイエスに従うことではない。我々も彼らと同じところに生きている。イエスに従うと言いながら、従っていない。それどころか、自分に従っている。自分の支配を広げ、神の支配の中に適切に置かれることを受け取らない。我々もイエスに従わない者である。

弟子たちのこの思いが結果的にイエスを十字架に付けた。イエスはこのような無理解の弟子たちによって十字架を引き受けた。我々も洗礼によってイエスと共に死んだと言いながら、イエスだけが死んだのだ。それゆえに、我々は生涯悔い改めて生きなければならない。少なくとも、そのように生きることを求めて、悔い改めつつ、イエスに従って行くのだ。そうでなければ、イエスの十字架は無駄である。イエスは無駄死にしたのだ。

「わたしに従いなさい」と言い給うイエスは我々が中途半端な人間であることをご存じである。愚かな自分勝手な人間であることをご存じである。その我々のために十字架を引き受け給うたイエス。このお方の受難の苦しみは、あなたが所有を離れるための苦しみ。わたしが所有を離れる日まで苦しみ給うキリストなのである。

キリストの顔はエルサレムに向けられている。地上の栄光を我が物とするエルサレムに向けられている。その罪に向けられている。我々の罪に向けられている。所有を離れて、神の国の適切に置かれた者とされる日まで、イエスが顔を向けているものに向き合って、生きていこう。

祈ります。

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