「生成する憐れみ」

2016年7月17日(聖霊降臨後第9主日)

ルカによる福音書10章25節~36節

 

「自分自身を義とすることを意志する者がイエスに向かって言う。誰が、わたしの隣人であるか。」と言われている。「自分自身を義とすることを意志する者」とは、新共同訳で「自分を正当化しようとして」と訳されている律法の専門家のことである。正当化するとは自分自身を義とする意志を持っていること、つまり自分で自分を義とすることができると思い込んでいる者のことである。それゆえに、彼は自分の隣人を自分を中心として考える。自分に対して隣人である者が誰であるかと。しかし、イエスはたとえの中で、「強盗の手に落ちた者の隣人として生じた者は、これら三人のうちの誰か」と問う。ここにおいて、隣人の判定は自分を中心としたところから、生じさせるお方を中心としたところへ移らされている。「隣人になる」と訳されている言葉は、「生じる」ことであり、「生成する」ことである。サマリア人が隣人として生成された者だということである。神がサマリア人を隣人として生成したのである。その切っ掛けはいったい何だったのか。「憐れみ」である。「その人を助けた人」とは「彼と共に憐れみを行った者」が原意である。強盗の手に落ちた者と共に憐れみを行った者がサマリア人であった。このサマリア人は一人で憐れみを行ったのではない。強盗の手に落ちた人と共に憐れみを行ったと言われている。憐れみは共に行う業である。一人で誰かに行うのであれば、行う人と受ける人が分けられてしまう。分けられた時点で、受ける人は何もせず受けるだけの存在となる。行う人が憐れみを持っていて、持っていない受ける人に与えるという図式になる。しかし、憐れみは二人で行ったのである。それは、神の憐れみがあって、共に行うことが生じるということである。憐れみは人間が持っているものではなく、神が持っているものである。憐れみとは神の働きだからである。憐れみ深い神が憐れみの源である。神が憐れみを持っておられる。神の憐れみが、二人の者を用いて、憐れみを生成する。

憐れみという言葉は、ヘブライ語でラハミームという言葉であり、共に苦しむことを意味していた。それは女性の胎を意味する言葉である。しかし、預言者たちによって、神の愛ヘセドが憐れみラハミームの意味も併せ持つようになった。これをギリシア語に訳す場合にエレオスと訳された。従って、神が胎のうちに持って共に痛み慈しむ愛がエレオス憐れみなのである。新共同訳で「助けた者」と訳されている言葉にこのエレオスが使われている、「憐れみを彼と共に行った者」と。

憐れみが神のものであるならば、二人の者に憐れみを行わせたのは神である。神がご自身の憐れみから、二人の人間に憐れみを行わせた。神が憐れみを生成したのである。そして、憐れみを生成する憐れみは神の愛、憐れみである。では、何故先の二人の者、祭司とレビ人とは、強盗の手に落ちた人と共に憐れみを行うようにされなかったのか。彼らが冷たかったからなのか。冷たいということは、心の問題、感情の問題であろうか。それとも信仰的在り方の問題であろうか。強盗の手に落ちた人を見て、はらわたを痛めるような憐れみを感じたサマリア人は、感情が豊かだったのだろうか。どうして、彼は憐れみを感じたのだろうか。どうして、共に痛むことができたのだろうか。一方で、祭司やレビ人はどうして共に痛むことができなかったのであろうか。

どのようにしてそれが可能なのかと考えることは、律法の専門家の考え方と同じである。彼は、「何を行って、わたしは永遠の命を受け継ぐであろうか」と考えている。その考え方に従えば人間が行うことで受け継ぐことになる。イエスの答えも「それを行え、そして、あなたは生きるであろう」であった。同じ考え方のように思える。どちらも行うと言ってるのだから。ところが、イエスが言う「あなたは生きるであろう」は永遠の命を受け継ぐこととはどうも違う。何が違うのか。イエスの言は「生きるであろう」という未来形の動詞である。命を生きることと語っている。律法の専門家は永遠の命を受け継ぐと考えている。これは何かご褒美のような、物のようなものと考えられた永遠の命である。イエスは生きるという端的な命の在り方を考えている。この違いは大きい。

律法の専門家の最後の答えは、相変わらず「憐れみを行った人」という言い方が使われているが、憐れみが二人の人間によって行われることとして語られている。この言い方になったのは、イエスのたとえにおいてはらわたを痛めるように「憐れに思い」と言われている言葉を聞いたからであろう。憐れみの対象には「共に」という言い方になるギリシア語の前置詞が使われる。それゆえに、行うという言葉を使いながらも、共に行うという行為者と受け手とが共に行う憐れみを語ることになったのである。そして、イエスは彼が生きるであろう将来を願って、彼に言う。「あなたは行え、同じように」と。イエスの言に従って生きるならば、もはや永遠の命を物として考える過誤には陥らないであろう。彼はただ行うであろう。生成する憐れみの中で。

神の憐れみは生成する、人間たちを憐れみを共に行う者として。神の憐れみは生じさせる、共に憐れみを生きる出来事を。神の憐れみに促されて、我々は生きるのだ、神の憐れみに共に与って。使徒パウロがコリントの信徒への手紙一9章23節で言う「福音の共なる交流者」という言葉と同じく、我々は憐れみの共なる交流者として生じるのである。それは共に生じるのであって、一人で生じるのではない。一人では憐れみを生きることはできないからである。憐れみを生きるのは、他者と共に生きることである。一方的に与えるのではなく、共に与るのである。与える側と受ける側が生じるのではあるが、共に生じなければ授受関係は起こらない。我々は与える者が上で、受ける者は下だと考える。しかし、神の前では与える者も受ける者も共に神から受ける者である。両者の間に神の憐れみが下るからである。両者を神の憐れみの器とするからである。共に与らない限り、憐れみに与ることはできないのである。この憐れみは、与える側を中心として、わたしが与える隣人は誰なのかと考えない。神が与える憐れみは、与える側と受ける側を同時に包む。神が中心であり、神が憐れみを創造する。神が二人の人間の間に憐れみを送る。憐れみに動かされて、憐れみを共有し、憐れみを共に行い、生きる。これが、イエスが語っておられることである。

祭司やレビ人が憐れみを共に行うところに至らなかったのは、彼らが一人で生きようとしていたからである。それが、律法の専門家の立場と同じだったのだ。イエスの最初の答えから考えれば、彼らは「生きていない」のである。生きるということは他者と共に神のものに与ることである。永遠の命は自分だけが手に入れるものではない。神の命を自分だけで生きるのではない。神の命は共に生きる命である。神がわたしを生かし給うのは、共に生きるようにと生かし給う。この神の意志に従う者は、共に生きる。共に行う。共に与る。こうして、誰も自分のものだと主張することがない命を生きる。これは所有を離れることなのである。

我々は、自分が持ち続ける限り、自分は安心だと考えるものである。しかし、持っているだけでは生きていない。使用することで生きる。信仰もわたしのうちに働く神の働きであって、信仰という何かを所有することではない。永遠の命も持っているものではない。生きるもの、共に与るものである。一人だけ安心しているような人間は永遠の命を生きてはいない。生きることもない。神の国もどこかにあるなどと言えるものではなく、「あなたがたのただ中にある」とイエスはおっしゃった。神の憐れみも我々のただ中に与えられ、我々が憐れみを共に生きるように憐れみが働くのである。

今日共にいただく聖餐は、神の憐れみとしてのキリストの体と血である。「あなたがたのために」と与えられるキリストの体と血に共に与り、キリストの体として形作られていく。我々が共に憐れみを行う者として、生きていくようにとキリストは十字架を引き受けてくださった。このお方が我々の間に生きてくださる恵みを共に生きていこう。

祈ります。

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