「キリストにある一」

2016年7月24日(聖霊降臨後第10主日)

ルカによる福音書10章38節~42節

 

「主の足下に座っていたマリアは、彼の言ロゴスを聞き続けていた。」と言われている。マリアという名は、「愛されている」という意味と「ふっくらした」という意味がある。マリアは良く座っているので、ふっくらした女性だったのかも知れない。反対に、マルタという名は女主人という意味である。家庭を切り盛りする女性だったのであろう。マリアは愛されていることを知っており、ふっくらとした性格であった。それゆえに、マルタが忙しく立ち働いていても頓着することなく、主の足下に座っていることができたのである。マリアはそのような意味で、憎めない、愛される存在であったと言えるであろう。ところが、マルタがイエスに文句を言う。「主よ、あなたに関わりないことですか、わたしの姉妹がわたしだけを奉仕するままにしていることは。」と。マルタはマリアに直接言わず、イエスに言う。イエスが自分を認めてくれないことに不満を覚えているようである。マルタがマリアに直接文句を言わなかったのはどうしてなのか。マリアのことよりも、マリアを放置しているイエスに文句を言うのはどうしてなのか。マルタが家を切り盛りする女主人であるからであろう。マルタはイエスがこの場の主であることを了解しているのである。それゆえに、マルタはイエスがこの場の主として相応しく家全体を動かしてくれないことに不満を覚えているのであろう。これは、良く気がつく人の陥るところである。

気がつく人は、自分が気がついたことを自分のことのように担うものである。それゆえに、多くのことを気にかけて、混乱してしまうことも起こる。あれもこれもしなければならないことがあると気付くと、わたしがしなければと引き受けてしまう。一つのことを行っていても、別のことが気になる。それゆえに、気付かない他の人に腹が立つ。しかし、マリアは主の足下に座って、主の言ロゴスを聞いている。マリアをその場で叱りつける訳にはいかない。主が気付いてくださらないかと気にしながら、働いていた。そのマリアの思いが膨れあがり、イエスに言わざるを得ない。「主よ、あなたに関わりないことですか」と。「ご覧ください。マリアは、あなたの足下に座って、あなたの言を聞き続けています。動こうとしないのです。どうして、気にしてくださらないのですか。あなたはお優しい方だと伺っています。小さな人たちのことを守るお方であると伺っています。それなのに、わたしのことは気にしてくださらないのですか。マリアが座っていることを放置しているのは何故ですか。」と、マルタはイエスに言ったのだ。

それに対して、イエスはマルタの思いを汲んで応えている。「マルタ、マルタ」とマルタに二度呼びかけているが、これは愛情の表現、愛おしさの表現である。イエスはマルタを愛している。だから、マルタが多くの奉仕について、心がバラバラになっていることに気付いている。「あなたは多くのことについて思い悩み、心がかき乱されている」とイエスは言う。思い悩むと訳されている言葉は、空の鳥、野の花を注意深く学びなさいとおっしゃった言葉の中に出てくる。思い悩むという言葉は、断片的に思い起こすという意味である。つまり、総合的に考えることができないということである。断片的な対処ばかりで、総合できないので、対症療法しか行うことができない。それゆえに、あれもこれもと多くのことによって心かき乱されてしまう。そのような状態になったとき、人間はイライラしてしまうものである。落ち着きがなく、何をしても、不満ばかりが起こる。他者を批判してしまう。疑心暗鬼に陥る。そのように心かき乱され、断片化されていたマルタが、イエスに注目する。イエスが言を語っていることに注目する。そこにおいて、マルタは一つのことに引き寄せられているのだ。イエスという一人のお方に引き寄せられている。マリアもイエスに引き寄せられている。こうして、マリアもマルタもイエスにおいて一つとなっているのである。

マルタがマリアを批判しなかったのは、イエスに引き寄せられたからである。マリアもマルタの労苦に気付かなかったのはイエスの言に引き寄せられたからである。こうして、イエスにおいて、二人の姉妹は一つになっている。互いに、イエスに向かうことにおいて、一つになっている。キリストにある一を生きている。キリストがすべてを総合するお方である。

イエスはさらに言う。「しかし、一つである、必要は。何故なら、マリアは、善き方を選んだ。それを彼女から取り去ってはならない。」と。善き方を選んだと言われると、マルタが選んだのは悪い方なのかと考えてしまうものである。しかし、マルタは全部を抱えているのであり、選んではいないのだ。マルタは多くを断片的に考えている。しかし、マリアは一つのことしかしていない。いや、できない。それがマリアの選びなのである。

我々人間は、誰であろうとすべてを行うことはできない。我々が行い得ることは、一つのことだけである。そして、今必要なことは一つしかない。能力のある人は、多くのことを行うであろう。しかし、多くできるがゆえに、心も多くのことに断片化されてしまう。本来的には、我々人間は一つのときに、一つのことしかできないのである。そして、それで良いのだ。明日のことを思い悩んで、今を生きられなくなるということが、イエスが思い悩むなと教えられた言葉であった。同じように、我々には必要なのだ、一つであることが。同時に多くの奉仕を行うことはできない。我々は人間であって、神ではないのだから。それゆえに、マルタが一つを選び得ないことが彼女の心乱される原因であった。そして、マルタは、マリアが今しかできないことを選んでいるのを取り上げることはできないのだ。

しかし、マルタはこの混乱の中で、イエスを選んだ。イエスに問いかけた。イエスの言をいただいた。彼女が混乱していたことも、善きものを選ぶ結果となった。この世で最も善きものであるイエスをマルタは選んだのだ。我々が今日聞いているイエスの言は、マルタに与えられた恵みである。マルタによって、我々に与えられた恵みの言である。マルタが心乱されたことも、善きものを選ぶ契機となった。善きものを他者にもたらす契機となった。これは不思議なことである。マルタが文句ばかり言っていたわけではないだろう。このとき、イライラしていただけなのだ。しかし、彼女の罪深く見える主への文句を、愛する者を慈しむように受け取って、語ってくださったイエス。このお方は、マルタを叱っているのではない。マルタを愛している。ご自分に問いかけ、求めるマルタを愛している。この世でたった一つの善きものであるキリストの意志を求めたマルタこそ、幸いな者である。キリストの意志を求めるところへと導かれたマルタこそ、幸いである。

もちろん、マリアはマリアで善きものを選んでいる。イエスというお方を善きものとして選んでいる。しかし、マルタもマリアも実はイエスによって選ばれているのではないのか。ヨハネによる福音書15章16節でイエスが言うように、イエスが彼女たちを選んだのだ。とは言え、選ばれたがゆえに、マリアはイエスの足下に座し、マルタはイエスに求める。それぞれに選ばれた者が、選んだお方を求めた。選んだお方の言ロゴスを求めたのだ。二人の姉妹は、キリストにおいて一となっている。それぞれにキリストに向かうことにおいて、キリストが彼女たちを一としている。それぞれを生かしつつ、総合するお方キリストが彼らの間におられる。マルタの不満もキリストによって善きものとされていく。キリストがすべての一である。すべてを一とする善きお方である。

キリストの説教が語り出される十字架は、マルタとマリアの間に立っている。ふっくらとした座るマリアと、女主人として立ち働くマルタ。二つの人間の姿を一つとするキリストがおられる。我々は如何なる人間であろうとも、キリストにあって恵みを与えられる。働く者も座す者も、共にキリストにある一を生きるのだ。キリストを求めているならば、すべては善きものとなるのだから。

祈ります。

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