「厚かましい祈り」

2016年7月31日(聖霊降臨後第11主日)

ルカによる福音書11章1節~11節

 

「たとえ、彼の友であることによって、起きて、彼に与えることがないとしても、彼の厚かましさによって、起きて、彼が必要なものを何でも彼は与えるであろう。」とイエスは言う。祈りとは「厚かましさ」だと言うのだ。ここで使われている「しつように頼めば」と新共同訳で訳されている言葉アナイデイアは「厚かましさ」である。「慎み深い」という言葉に否定辞がついた言葉であり、「慎みがない」ことであり、「恥知らずなしつこさ」という意味でもある。イエスは祈りとは「恥知らずなしつこさ」、「慎みの無さ」、「厚かましさ」だと言うのだ。我々が考える祈りとはずいぶんとかけ離れた話である。しかし、確かに祈りは厚かましいことである。

「彼の友であることによって、彼に与えることがないとしても」と言われているように、祈る者、求める者の資格によって祈りが聞かれるのではないとイエスは言うのだ。祈りは厚かましさによって聞かれると。確かに、祈りは祈る者の資格によって聞かれるのではない。祈る者が毎週礼拝に出ているから聞かれるということであれば、それは資格を持っているということになる。しかし、そのような資格によって聞かれるのであれば、救われ難い人間が救われることはない。それではおかしいと考える人間が祈りは資格が必要だと言うのである。特別な奥義だと考えるのである。

ところが、イエスはそうではないと言うのだ。資格によって、神が祈りを聞くのであれば、その資格と祈りの結果は交換されていることになる。交換されているならば、交換されるべき資格をまず獲得していなければ祈りは効力を発揮しない。しかも、資格があれば祈りが聞かれるということであれば、祈る必要もないことになる。資格があるならば、すべては与えられているからである。そのとき祈りは必要ないのだ。資格のない者が厚かましくも祈るのが祈りである。イエスがたとえで語っているのは、神に祈りを聞いていただくような資格のある人間はいないということである。それでも祈るのが祈りである。祈る人間は厚かましい。厚かましいことを知っている者が祈る者である。当然聞いてくださると思っている人間は祈らないであろう。厚かましくも祈らざるを得ない者が祈るのである。資格などないし、聞いてくださる保証もない。それでも祈るのである。それが祈りだとイエスは言うのだ。

我々は厚かましく祈らなければならない。しかし、厚かましいと思っている人間は資格などないけれど祈らざるを得ないというところに立っている。それゆえに真剣に祈るのである。厚かましく、恥知らずで、慎みない者が祈る者である。わたしは聞いていただくような資格のある者ではありませんと、厚かましさを認めつつ、祈るのである。そのような祈りは真実に祈りである。期待できないところで期待することこそが祈りである。資格なき者が祈るがゆえに祈りである。資格ある者が祈ることはない。資格によって交換できるものを持っているがゆえに、祈らなくとも良いからである。ということは、祈りはイエスがいうように厚かましいことなのである。

我々人間は厚かましくも祈る。苦しいときの神頼みよろしく、毎週礼拝に出ていなくても、苦しいときは祈るのである。ところが、毎週礼拝に出ていない者は祈ることを忘れるのである。祈っても聞いてもらえないと思うのである。一方で、毎週礼拝に出ている者は、自らの資格の無さを毎週教えられている。資格などないのだと毎週聞かされるのだ。我々は罪人であり、悪いことしか考えていないと聞かされている。心の中で計画することは悪でしかないと聞かされている。あなたに祈りを聞いていただける資格はない。救われる資格もない。しかし、人は救われたいと思う。そして毎週礼拝に出る。何とかして資格を得ようと出る。しかし、資格はないと聞かされる。ルターが言うように、我々は罪深く、善を行って通常の罪を行ってしまう人間なのだ。そのような人間が救われる資格はない。使徒パウロさえ、救われ難い自分を知った。しかし、救われ難いがゆえに、祈らざるを得ない。救われる資格のある者が救われるのであれば、救いではない。救われ難いがゆえに救われることが救いである。しかし、救われ難いことを知るのは、律法、聖書、みことばによってである。みことばを聞いていなければ、救われ難いことを認めることができない。救われなければとも思っていないであろう。それゆえに、我々は救われているとすれば、厚かましいからである。恥知らずにも、キリストによって救われると信じたからである。慎みない祈りがあったからである。

これだけ良いことをしているのに、神は祈りを聞いてくださらないと考えるとしたら、それこそ傲慢なのである。これだけ献金しているのに、神はわたしの必要なものはくださらないと思うとしたら、神を冒瀆している。あなたの献金はあなたが神からいただいたものである。自分で稼いだ金だと思い、傲慢にも神にあげるのだと考える。そうすると、献金自体が感謝とはならない。神の恵みをいただくための交換物となってしまう。それは献金ではない。祈りも同じである。あなたが祈るとき、資格がないにも関わらず、厚かましくも祈っていることを認めなければならない。そのときこそ、あなたは真剣に祈るであろうから。そのときこそ、あなたの祈りも献げ物も真実に献げられてるであろうから。

それでは、主の祈りも厚かましい祈りなのだろうか。弟子たちが教えて欲しいとイエスに願ったがゆえに、与えられた祈りである。この祈りは厚かましいのだろうか。イエスが教えたのだから、厚かましい祈りではないと思いがちである。しかし、やはり厚かましいのである。何故なら、この祈りにおいても、我々は資格ない者が真実に祈るという定式を認めなければならないからである。地上に御心がなるとは、自分たちで破壊した地上に御心がなることを求めることである。自分たちで破壊し、御心などないような状態にしておきながら、祈るのである。自分を傷つけた者を赦せないにも関わらず、赦しましたからと祈る。赦しますからと祈っても同じである。どっちにしても赦していないのだから。それなのに、自分の赦しは神からしか与えられないがゆえに、厚かましくも祈っているのだ。日ごとのパンも同じである。日ごとに与えられる資格などない。しかし、与え給えと祈る。誘惑に陥ってしまうのは自分の罪ゆえであるにも関わらず、陥らせないでくださいと祈る。我々は主の祈りを祈りながら、反することばかりしている。にも関わらず、祈れとイエスは言い給う。それゆえに、たとえで厚かましい人について語ったのだ。イエスはそう語らざるを得なかったのだ。お利口ちゃんしているなら、祈りは聞かれるとは言わない。厚かましくも祈るならば、うるさくて仕方ないから神は聞いてくださると言うのだ。我々を愛しているから神は祈りを聞くのではある。そうでなければ、資格がないから聞かないと突き放していたであろう。資格がないのだが、愛するがゆえに聞く。うるさいから聞くということも、愛がなければ聞かないであろう。しかし、神の愛を受け取らない人間は資格を有することを求めるのである。そして、神の前で自分の資格を披露しようとする。こうして、神の愛から離れ、神を愛さない者として生きることになる。

我々人間は、神を愛しているならば、毎週自らの罪を認め、悔い改め、また罪を犯しても、礼拝に招かれて、罪の告白をするのだ。そうでない者は、神を愛していないし、祈ることもない。祈りを聞き給う神を信じているならば、毎週礼拝に集められることに従うであろう。そして、厚かましいことを認めつつも、あなたが祈るようにとおっしゃったので、祈ります、どうか聞いてくださいと言うのだ。

我々は厚かましく祈ろう。厚かましく聖餐に与ろう。キリストの体と血に与る資格などないにも関わらず、キリストは「あなたがたのために与える」とおっしゃるのだから。厚かましくあって良いのだ。わたしには資格などないと認める者こそ、祈る者であり、聖餐に真実に与る者である。そこにこそ、信仰があるのだ。キリストの十字架はそのようなあたなのために立ち続けているのだから。あなたを愛し給うキリストが厚かましく祈れと勧めておられる。

祈ります。

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