「キリストの喜び」

2016年8月7日(平和主日)

ヨハネによる福音書15章9節~12節

 

「これらのことをわたしはあなたがたに話した。わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、そしてあなたがたの喜びが満たされるために。」とイエスは言う。「わたしの喜びがあなたがたのうちにある」と言う。イエスの喜びとはいったい何か。16章22節にはこのように語られている。「そして、それゆえに、あなたがたは悲しみを持っている。しかし、再びあなたがたは見るであろう。そして、あなたがたの心は喜ばされるであろう。そして、あなたがたの喜びを、誰も、あなたがたから取り去っていない。」と。弟子たちの喜びが満たされるということは、イエスを再び見ることである。すなわち、復活のイエスを見せられることである。その喜びは誰も取り去っていないと言われているのだから、このときに彼らには認識できなくとも、喜びは存在している。存在しているがゆえに、いずれ見ることになり、いずれ喜ぶことになる。ないものが現れることはない。あるがゆえにいずれ現れる。従って、弟子たちの喜びは、今は見えなくともいずれ見られるようになる喜び。それは、イエスを見せられるという喜びである。この喜びは誰も弟子たちから取り去っていない喜びであるとイエスは言う。イエスは未だ取り去られていないのだから、弟子たちと共にある。弟子たちはその喜びがあることを今は知らない。取り去られたとき、喜びが共あったことを知る。再びイエスを見るそのとき、真実に弟子たちはイエスと共にある喜びを生きるであろう。それこそがイエスの喜びなのである。そのためには、イエスの取り去りが必要なのだ。取り去られなければ、喜びは来たらないからである。キリストの十字架は、この喜びを来たらせる神の力である。

取り去られることがキリストの喜びである。それゆえに、キリストは弟子たちのために喜んでいのちを捨てる。喜んで捨てるイエスにおいて、弟子たちは喜びを満たされる。永遠に取り去られない喜びを。その入口が十字架。十字架がイエスを取り去り、悲しみをもたらすかに見える。しかし、喜びを来たらせる力。取り去られない喜びを来たらせる力は十字架にあるのだ。それは、イエスが父の愛のうちで、いのちを捨てるからである。愛されている者が愛する者とされる。これがイエスと父との関係である。その同じ関係に入れられたとき、弟子たちは愛する者とされるのだ。イエスの愛を受け取ったとき、弟子たちも互いに愛するのだ。そのためには、イエスが取り去られるときが必要なのである。それは、人間的な取り去りではあるが。

弟子たちは、今はまだイエスの十字架を経験していない。それゆえに、彼らは悲しみを知らない。真実に悲しんでいない。イエスと共にあることが失われることはないと思っている。永遠にこのままだと思っている。ところが、あって当然だと思っていたものが取り去られる時が来るのだ。この世にあっては、取り去られることは人間の必然である。誰でも永遠にこの世に存在することはできない。ただ、イエスの場合は、自然的な取り去りではなく、人為的取り去りとしての十字架である。人間的なものである十字架は永遠の中では何の力もない。力ない人間が取り去ったと思うだけである。従って、人間が取り去ったと思ってもなお、イエスは弟子たちと共にあり続ける。今現在彼らと共にあるイエスは根源的なお方。ペトロが告白したように、永遠の命の言葉を持っているお方。取り去られたとしてもあり続けるお方。地上的には消える。しかし、ある。それを弟子たちは知らない。イエスが取り去られていない今は知らない。弟子たちに認識されていないとしてもなお、あるものはある。ないものはない。然りは然りであり、否は否である。それが、「わたしがあるところのわたしはある」と語るヤーウェの世界。人間的には認識できない神の世界である。

認識できないがゆえに、弟子たちは悲しみに暮れるであろう。イエスを見なくなった悲しみが彼らを覆うであろう。その悲しみは、イエスを再び見るためには必要な悲しみである。この悲しみを通って、イエスが永遠にあるお方だと認識されたときに、弟子たちは永遠の喜びを喜ぶ。彼らの喜びであるイエスを喜ぶ。それが弟子たちの喜びが満たされることであり、イエスの喜びである。

イエスは、弟子たちの喜びにおいて、自ら喜ぶ。イエスは弟子たちに喜びを満たしたいとおっしゃっているのだ。悲しみに満たされる弟子たちに喜びを満たしたいと。それがイエスを再び見ることであり、復活である。悲しむ弟子たちに喜びを満たすため、イエスは復活させられる、神によって。究極的には、神が弟子たちの喜びを満たすお方である。キリストご自身は神が満たす喜びそのものである。弟子たちが喜ぶ喜びの中でキリストご自身が喜びとして喜ぶ。喜びは喜びを享受することである。神が満たし給う喜びを享受することである。神が支配し給う世界は神の喜びで満ちている。しかし、人間はその喜び満ちる世界を破壊した。罪によって、粉々にした。分裂と争いが生じる世界にしたのだ。この人間の世界を救済する力は人間にはない。神の愛だけが世界を救う。神の愛こそが世界を包む。神の愛こそが根源的愛。我々はただ包まれていることに留まるのみ。そのとき、我々もまた愛する者として造られるのだ。

ルターが言うように、神の愛は創造する愛である。愛する者を創造する愛。敵対する者を包み込み、愛する者として創造する愛。愛する者を創造する神の業こそ、キリストの十字架である。この十字架に留まる者が、愛する者として創造される。それがキリストの喜び。愛する者を創造することがキリストの喜び。キリストの喜びが十字架の力である。この力のうちに包まれている状態を神の平和シャロームと言う。神の平和は神のうちにある。神の愛は平和シャロームそのもの。十字架は平和そのものである。神のうちにあると認識した者は、平和のうちに生きている。神の平和、神との和解、そして人との和解の中に生きている。それゆえに、争いはない。なぜなら、一人ひとりが喜んでいるから、シャロームのうちにあることを。この喜びは、地上的時間を越えたもの。地上的憎しみを越えたもの。地上的争いを越えたもの。永遠の喜びである。取り去られることのない喜びである。イエスが取り去られる悲しみが神の平和であるならば、取り去られることが平和の入口である。この入口によって、すべてがつながっている。弟子たちも、そしてイエスの敵対者たちも。その始まりが弟子たちである。弟子たちが十字架を宣教することにおいて、世界は神の愛に目覚める。世界は神の愛に包まれていく。一人ひとりが包まれていく。少しずつ包まれていく。

神の愛のうちに育まれる世界。その世界が来たるために、弟子たちは出かけていくであろう。実を結び、実が残るであろう。イエスが語る通りにそれは生じるのだ。我々がイエスの愛のうちに留まるならば、愛の掟は全うされる。愛の掟が全うされるならば、我々は愛のうちに生きている。その日は、この地上的なものを越えたところに来たる日、地上的なものの終わりのとき。そのときを望み見ながら、弟子たちはキリストの十字架を宣教し続ける。キリストの喜びが彼らの内にあるのだから。永遠の喜びが、失われない喜びが、彼らの内にあるのだから。この喜びが我々キリスト者のうちにある喜びである。

我々は自らのうちにある喜びを宣べ伝える。宣べ伝えることにおいて、喜びが満たされていく。満たされた喜びが喜びを生む。このような世界が来たるとイエスは言う。我々が今目にしていないとしても、来たる。いや、我々のうちにすでにある。取り去られることなくある。この喜びを我々は今日も受ける。キリストの体と血に与って、永遠の喜びのうちに留まるのだ。キリストは喜んでご自身の体と血をくださる。我々が愛する者として創造されるためにくださる。喜びを享受するようにとご自身を与えてくださるキリスト。このお方の体と血に与り、互いに愛する者として生きていこう。神の愛に包まれて、キリストのものとして生きていこう。あなたは愛する者とされる愛された者。あなたのために十字架を引き受けてくださったキリストの喜びがあなたのうちに働いているのだから。

祈ります。

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