「断片化する火」

2016年8月14日(聖霊降臨後第13主日)

ルカによる福音書12章49節~53節

 

「わたしは来た、火を投げるために、地の上に。すでに、それが点けられていたなら、わたしは何を意志するであろうか。」とイエスは言う。地の上に火が点いていたならば、イエスは来る必要はなかったと言う。イエスの意志は、火を投ずること、火を点けることであると言う。しかし、イエスは「洗礼される洗礼をわたしは持っている」と言う。イエスが沈められる沈めを通して、火が点けられるということであろうか。イエスの洗礼とは十字架である。

さらに、火が点いているということが何を意味しているかを述べる。イエスは、平和を与えるために来たのではなく、「むしろ、分裂」であると言う。分裂を与えることが、火が点けられることであるとイエスは言うのである。その分裂は、家族の中の支配と被支配の関係が崩されることだと述べる。家族が分かれることが、火が点けられることである。イエスが投ずる火が家族を分裂させる。イエスは分裂させる火を投ずるが、それは断片化することである。「分かれる」と訳されている言葉は、断片化することである。バラバラにすることである。この断片化によって何が起こるとイエスは言うのであろうか。

我々は、一致すること、一つ心になることを求める。それが善い事だと考える。しかし、ユダヤの考え方では、全員一致は不正が働かれた結果であると言われる。人間は一つの考え方にまとまることはないのである。十人十色と言われるように、さまざまな考え方がある。それは当然なのである。我々は一人ひとり自分の視点で世界を見ているのだから。自分の生活から世界を認識し、世界の良いところと悪いところを考えている。それゆえに、同じ考え方になることはない。同じようなところに立つことはあっても細かな点で違いが露呈するものである。それが我々人間の姿である。

ところが、我々は違いを強調することや自己主張することが悪いことではないということも知っている。反対に、自己主張ばかりで協調性がないのも良くないと考える。自己主張が良いのか悪いのかは、最終的にその人との関係によることである。また、親がこどもを保護することは当然だが、過度になれば抑圧となり、支配となる。家族の中でも抑圧や支配が生じる。保護されるべき家族を保護しないということも、育児放棄と言われることもある。その際にも、こどもの自主性のためにと弁解する人もいる。結局、何が良くて、何が悪いかは、いのちを守ることを基準としなければならないが、いのちを守ると言って、誰かを殺害するならば、悪である。

我々人間は、如何に良い人だと思えても、悪を行ってしまう根を持っている。その根を罪と呼ぶが、この根は自分では取り去ることができない。取り去ることができないのに、全員が同じように良くなると思い込んでいる。そのように考える自分の意志に従わせることが良いことだと思う。自分が考えることが良いことであって、自分の考えと違うことは悪いことであるとも考える。こうして、力ある者がすべて自分の考えに従わせて、平和だと自負する。その陰で、抑圧されている者が声を上げられないのに。これが、我々人間が作り出す平和と呼ばれるものである。それは、平和ではなく、抑圧支配である。

このような地の上に、火は点いていないのだとイエスは言うのである。火が点いたならば、断片化が起こり、一体だと思っていたものが崩される。崩されることによって、イエスの洗礼である十字架も起こる。断片化と十字架は不可分である。十字架によって断片化する火が点けられる。支配の最小単位である家族の断片化は、家族の崩壊のようでいて、イエスが求める火なのである。イエスが来たのは、この火を投ずるためである。十字架によって投ずるためである。

イエスは言う。「あなたがたは考えている、わたしが来たと、地における平和を与えるために」と。しかし、そうではない。イエスが来たのは、地における平和を与えるためではない。地における平和は、抑圧体制の別名なのである。誰かの考えに従わせられることの別名を地における平和とイエスは言うのである。そのような地の上に分裂、断片化を与えるために、イエスは来たのだ。そのとき、家族は崩壊し、支配、被支配の関係も崩壊すると。そうして、何が残るのだろうか。地上の体制が崩壊して何が残るのか。一人ひとりが残る。一人ひとりの魂が残る。一人ひとりが自分を生きることが残る。

自分を抑えられて、生きることに窒息しそうな小さな人間たちが解放される。断片化されることで、全体が失われ、断片だけが残る。そのとき、一人ひとりは自分自身を生きるであろう。いのちを守ることがイエスの使命である。地の上に来たイエスが投ずる火によって、ばらばらにされた人間一人ひとりのいのちが守られる。それが十字架の力である。十字架の上に、我々人間のすべての罪が引き受けられ、働かなくされる。十字架の前で、自分自身の罪を我々は見上げる。一人ひとりが見上げる。一人ひとりが見上げることを十字架は求める。我々全員が同じ罪を犯したわけではない。それぞれに罪過は違う。同じなのは、一人ひとりのうちに住む根源的罪。その根源的罪から、我々は自分の罪を生み出す。自分の罪を働く。自分の罪過を実行する。自分の罪を通して、自分のうちに住む根源的罪を認識する。それは、このわたしが十字架を一人見上げるときである。断片化されて、たった一人で十字架を見上げる。そのとき、我々には火が点けられている。イエスが点けるために来た火が点けられている。そのとき、父は息子と分かれ、母は娘と分かれ、しゅうとめは嫁と分かれる。イエスの十字架の前には、一人だけしか立つことができないのだ。共に立つことはできない。

礼拝においては、我々は十字架の前に一緒に立っていると思っている。しかし、一人ひとりが真実に十字架に向かうのでなければ、立っているとは言えない。身体的に場所を共有して一緒に立っていても、それぞれの罪の中で立っているのだから。一人ひとりが真実に十字架に向かう群れを教会と呼ぶのである。そのとき、我々は地における平和を生きるのではない。地の上に与えられた神の前の平和を一人ひとりが生きるのである。神のシャロームの中に一人ひとりが生きるのである。そのとき、キリストが我々の平和として立ってくださることを認めるであろう。神とわたしの間には十字架があるのみ。神とわたしの間には他の誰をも介在できない。それが、火が点けられている存在である。

火はすべてを焼き尽くす。我々が頼っていたものも、我々が抑圧されていたものも、我々が抑圧していたものも、すべてを焼き尽くす。火を点けられている存在は、それらを捨てざるを得ない。火がわたしを浄め、わたしを神のものとするから。神がわたしを神のものとして獲得するために、投じられる火。それがキリストの十字架であり、キリストが沈められる沈め、洗礼である。

キリストの受けた洗礼、十字架を通して、我々は自分自身の罪をキリストのものとされ、キリストの義が我々のものとされる。我々の悪すべてが焼き尽くされ、キリストのものとされたわたしの魂が残る。そのようなわたしを生きるために、キリストは十字架を引き受けてくださった。このキリストによって点けられた火に、あなたは焼かれなければならない。キリストが苦しむと言われているのだから、我々も苦しむ。自分自身の魂のために、我々も苦しむのだ、キリストが我々の魂のために苦しんでくださったように。苦しみを通してこそ、真実に生きる道が開かれる。苦しみを通らなければ、我々は真実に生きることはできない。そのためにイエスは我々に火を投じてくださる。断片化する火を投じてくださる。

キリストの火に浄められ、キリストの十字架にいのちを得、キリストの十字架に従って、歩きだそう。あなたは、キリストのもの、神のもの。断片化する火が、あなたをキリストのものとしてくださる。使徒パウロが言う如く、十字架の言は、救われるわたしたちには神の力なのだ。断片化する火をいただいて、苦難を引き受け、生きていこう。失われることなきキリストのいのちが、あなたのうちに働いているのだから。

祈ります。

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