「苦闘する信仰」

2016年8月21日(聖霊降臨後第14主日)

ルカによる福音書13章22節~29節

 

「あなたがたは苦闘せよ、狭い戸口を通って入ることを。」とイエスは言う。救われる者が少ないのかとの問いにこう答える。イエスが使っている「苦闘する」という言葉はアゴーニゾマイである。オリンピックなどの競技に出場するために自分自身を打ちたたいて、節制し、苦しんで自分を鍛えるという言葉である。狭い戸口を通って入るには、太っていては入ることができない。節制して、狭い戸口から入ることができるように鍛えなければならない。そのような意味の言葉である。従って、誰もが入ることができるものではない。使徒パウロも第一コリント9章24節で言う如く、「一人が賞を得る」のだ。また、フィリピの信徒への手紙3章14節で言う通り「ゴールに従って、わたしは追求する、キリスト・イエスにある神の上への召しの賞へと。」と。賞を得るのは一人なのだから、その賞を得るように、自制し、体を打ちたたき、自分自身を隷属させるとまで言う。これが宣教した者の在り方であると。パウロだけが宣教したのではないし、我々も宣教されただけではなく、福音を受け取った者として宣教する者である。従って、我々キリスト者は苦闘する者としてキリスト者なのである。

キリストは、休ませてあげようとおっしゃったではないかと人は思う。しかし、キリストと共にくびきを負うために休ませてあげようと言うのである。休むことが目的ではなく、目標に向かって進み続けることが目的だからである。今日のイエスもエルサレムに向かって進み続けていたのである。進み続けるというのは目標があるからである。そこに至るまでは苦しくとも進み続ける。それがキリスト者なのである。なぜなら、キリスト者は神の国に向かって生きているからである。

確かに、今現在神の国を生きているのではある。しかし、今は完全に神の国は来たっていない。地上のすべてが神の国、神の支配の下に生きてはいない。地上のすべてが神の支配の下に生きるまでは、神の国は来ていないのである。それゆえに、宣教は継続される。継続される宣教の中で、一人が得る賞を捕まえるように節制して苦闘するのがキリスト者なのである。キリスト者は何に苦闘するのか。自分のうちに住む罪との苦闘である。悪魔の働きとの苦闘である。この苦闘を避けているならば、罪に流され、悪に支配されてしまうからである。この苦闘こそが狭い戸口なのだ。そこから入ることができるのは、肥え太っていない者である。自負と傲慢に肥え太っている者は入ることができない。なぜなら、その人の魂が膨らんでいるからである。その人は、自分に肥え太って、神を寄せ付けない。自負に膨れあがって、神に代わろうとする。傲慢で、低くされることを拒否する。狭い戸口から入ることができるのは、自負なく、取るに足りない者である。低くされることを引き受ける者である。高められることを求めない者である。そのような者が狭い戸口から入る者。苦闘している者。自分との戦いを戦っている者。罪と戦い、悪に流されない者。

このような者たちは、謙虚であるから、神の言を聞き続ける。堅苦しい礼拝ではなく、誰もが出入り自由な広場で聞いたことがあるというような人間ではない。キリストの教えを好むという人でもない。キリストの教えは聞きたいが、救いはいらないという人でもない。キリストの教えの楽なところだけ聞く人でもない。落胆したときだけキリストの言葉を聞こうとする人でもない。いかなることがあろうともキリストの言葉を求め続ける者である。聞きたくない言葉も聞く者である。耳が痛い言葉を聞き、自らを顧みる者である。苦闘して節制するということは、自分が何かできると思うからではない。自分には力がないと思うからである。このようなわたしでは神に申し訳ないと思うからである。取るに足りないわたしを十字架の苦しみをもって愛してくださったキリストを知るからである。わたしが、キリストが十字架を負ってくださるに価する者ではないと知っている者である。そのような者はただキリストを愛する。愛するがゆえに、キリストが苦しんでくださったのだからと、自らも苦しむ者である。

わたしは、できないのだから、キリストが代わりになってくださると、開き直る者は、広い戸口を目指している。できないにも関わらず、キリストを愛するがゆえに、キリストに従って苦闘しようとする者がキリスト者である。そのとき、キリストがあなたのうちで働いてくださる。苦しまないキリスト者はいない。苦闘しないキリスト者はいない。自分自身のうちに住む罪と戦わないキリスト者はいない。自分自身が悪に流されることを嘆かないキリスト者はいない。悪に流されないようにとキリストに祈り、流されても立ち直ることができますようにとキリストに祈る。我々キリスト者は苦闘する信仰を与えられているのだ。

信仰とはあることをあると認めることから来たる。あることを否定するところには信仰は来たらない。信仰が神のものであるならば、神が在り給うところに信仰はある。神があるところは至るところである。この世のすべてに神は居給う。それゆえに、この世のあらゆるところであることを認めるとき、我々は信仰のうちに生きている。然りは然りなのだと認めるとき、我々は信仰によって、然りを生きる。神があるようにされたことを生きる。あるようにされた自分自身を受け入れることは苦しいことである。自分がありたいと願っていることが実現していれば受け入れやすい。しかし、賞を得られないとしても、それをあることとして受け入れるならば、神はそこから働いてくださる。あなたが苦闘するために力をくださる。信仰は、神の国に至るまで進み続ける力なのである。

このような苦闘の信仰を誰もが生きたいとは思わない。楽になる信仰ならば誰でももらいたいであろう。しかし、信仰は苦闘することを支える力である。そのような信仰を生きるのでなければ、我々はキリスト者ではない。そして、救われる者ではない。救われる者は、一人が賞を得るということを自分自身の中で生きるのである。罪と戦い、悪に抗して、神に従って生きるのである。世間一般に従わないのだから、堅物と言われるかも知れないし、面白くない人間だと言われるかも知れない。しかし、自分の肉と戦うがゆえに、この世に捕らわれることはない。この世が認めなくとも、自分自身を生きる。人が何と言おうとも、キリストに従って生きる。それが苦闘する信仰者である。

このような苦闘する信仰のうちに生きる者をキリストは知っていてくださる。神の国が来たるまで苦闘する者をキリストは知っていてくださる。その人もキリストを知っているがゆえに、苦闘する。キリストが十字架の上で苦しまれた苦しみは、わたしの苦しみなど遙かに越えているのだと知っている。それゆえに、この世の苦しみなど取るに足りないと知っている。こうして、キリスト者はキリストに従って、自分の十字架を取るのだ。いかなるときにも、与えられた十字架を担うのだ。自分の十字架を取り、キリストに従うのだ。キリストが十字架の上から励ましてくださる言葉を聞くのだから。

キリストの言葉に聞き、キリストの言葉に従い、キリストを愛して、神の国に向かって進み続ける者は、苦闘しつつ前進する。後ろのものを忘れ、全身を前に伸ばしながら、進み続ける。そのとき、キリストは足を支え、行く手を守り、悪しき者から保護してくださる。

今日、共にいただく聖餐は、キリストが我々を励まし、力づけ、前進させててくださる力である。キリスト者の食べ物である。我々がキリスト者として進み続けるための天の食べ物。いのちのパン。キリストのからだと血である。天に向かって、神の国に向かって、我々を歩ませる賜物。キリストが進み続けたように、我々も進み続ける。苦闘して、キリストに従う我々のうちに、キリストが生きてくださる。苦闘する信仰の糧を感謝して受けよう。キリストは、あなたが狭き戸口から入るように苦闘することを望んでおられる。狭き戸口へと招いておられる。キリストの招きに応えて、入り行こう、狭き戸口を通って、苦闘する信仰によって。

祈ります。

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