「無価値な者として」

2016年8月28日(聖霊降臨後第15主日)

ルカによる福音書14章7節~14節

 

「むしろ、受け入れを行うときには選んで呼びない、貧しい者たちを、身体障害の者たちを、身体麻痺の者たちを、視覚障害の者たちを。」とイエスは勧める。その人たちが与え返すことができないからだと言うが、彼らが貧しさを抱えているからである。しかし、この世における貧しさによって、与え返すことができないとしても、感謝を返すことはできるであろう。物質的な与え返しはできなくとも、むしろそのような人たちは感謝を返す。しかし、持っている者たちは、物を返すことや招き返すことしか返さない。感謝を返すのは、何も持たない者たちである。

しかし、感謝を返すということは、与えられる価値を自らに認めないがゆえである。従って、招かれる価値を認めない者を選んで呼ぶようにとイエスは勧める。彼らは与え返すものを持っていないから、最後の日の「義人の復活において、あなたに与え返される。」と言う。地上で生きていたように最後の日にも生きることになるからである。

最後の日に、価値無き者に与えられる神の恵みをいただく者は、地上において価値無き者として生きている者である。それは、与え返すものを持っていない存在として生きることである。価値なき者であるわたしを救い給うた神を信じる者は、価値無き者とされている人たちの痛みを知っている。それゆえに、そのような人たちをあえて選んで呼ぶ。価値無き者が恵みによって救われたのだから、価値無き者とされている人たちを選び給うお方を知っているのである。そのような人は、地上においても人を選ばない。

我々が選ぶ場合、人の価値に従って選ぶ。自分と同じ価値を持っている人を選んで呼ぶことで、自分もその人たちと同じ価値を持っていると思える。しかし、そうではない人を選んで呼ぶときには、自分も価値無き者として見られると考える。そのような思いが我々人間を動かしている。このような価値観の中で我々は人を選び、差別し、自分の価値を決めるのである。ところが、神の救いに関しては、この世の価値は何の役にも立たない。むしろ、この世の価値に従って生きている者は、価値無き者を救い給う神の恵みを知ることはない。神の恵みに感謝することもない。これだけの善いことをしているのに、神は何も返してくれないと思う。たったこれだけしか返してくれないと思えば、感謝など生まれない。むしろ、神はちゃんと見ていてくれるのかと神を疑うことにもなる。そのような人間は自分が選ぶことにおいて、自分で自分を除外しているのである。結局、自分が量る秤で量り与えられるのが人間なのである。それゆえに、我々は量ってはならない。量らないということは、自らを無価値な者であると認識することから生じる。無価値な者であろうとも神が受け入れてくださることを信じることが信仰なのである。「宴会」と訳されている言葉は「受け入れ」という意味である。誰かを受け入れる、受け入れを行うときにも、その信仰に従って行動するようにとイエスは勧めるのである。

このような信仰は行動の源泉であるが、無価値であることを認める者を動かすのは、受け入れ給う神の恵みである。価値無き者であるという認識は、我々の力に頼ることを放棄させる。我々は自分の力で救われるのではない。自分の力に頼っているかぎり、我々は永遠に救われない。神の力によって救われるのだから、自分の力は捨てなければならない。詩編46編の作者も歌っている。「力を捨てよ。知れ、わたしは神。」と。イエスもおっしゃる。「自分を捨てよ」と。我々は自分を捨て、力を捨てるとき、神の力によって救われることを受け入れるのである。神がわたしを受け入れ給うことを受け入れるのである。従って、今日イエスが「あなたが受け入れを行うとき」と言うのは、「宴会」ではあるが、ギリシア語の原義に従えば「受け入れ」なのである。宴会は人を受け入れることである。そのときあなたが受け入れたように、終わりの日に受け入れられるであろう、神によって、とイエスは言うのである。これが信仰という受け入れであり、信仰によって神に受け入れられることである。

我々は価値がある者だと思いたい。自分が生きていることは、何かなすべき務めがあるからだと。そのように考えるとき、我々は自分に価値を置いている。自分の価値に従って、神がわたしを生かしてくださっているのだと考えることになる。その考え方からこの世の生き方が生じる。何の役にも立たない者は生きる価値がないのだという価値観で生きることになる。我々人間は価値があるから生かされているのではない。ただ神の愛によって生かされているのだ。障害があり、麻痺しているとしても、生かされているのである。何もできなくとも、祈ることができると考えるときも、この世の価値観に陥っている。祈りを最後の価値あることだと考え、祈ることによって、何かができると考える。祈りさえも行為に貶める。

ユダヤ人は祈りテフィラーを味気ない、無意味なという形容詞ターフェルで表した。祈りが自分のための功績や力なのではなく、ただ神が求め給う祈りであるということが大事なことなのだ。祈りがなくとも、神はすべてをなし給うのだから、我々が祈ることにどれだけの力があるだろうか。しかし、神が祈りなさいとおっしゃるので、祈る。聞き届けるとおっしゃるので祈る。悩みの日に、わたしを呼べとおっしゃるので祈るのだ。この神の命令に従って、自分のような価値無き、無意味な者の声を神が聞き給うと信じて祈るのである。

従って、我々は祈ると言っても、祈る価値がある者ではないのだ。聞いていただける価値がある者でもないのだ。神が「わたしを呼べ」とおっしゃるから祈るのだ。わたしの祈りなど何の力もない。ただ、神が祈れとおっしゃる言葉に従って、神が聞き給うというだけである。無意味な、無価値な祈りこそ、真実の祈りである。価値ある、力ある、意味のある祈りを保持しようとするとき、我々は神を動かすと思い上がるであろう。むしろ、置かれた困窮の中で、謙虚にされ、叫ばざるを得ない者とされるがゆえに、祈る。真実に祈る。そのとき、神は、我々の価値のためではなく、無価値な者であろうとも、ご自身の約束に従って聞き届け給う。

終わりの日に救われるのは、無価値な者として神の前に生きる者である。無価値な者を神は恵みから救い給うと信じ、生きる者である。そのとき、我々は神の前に義人ディカイオスとされるのである、神によって。自分の力によってではなく、神の力によって義とされること。これが信仰義認である。従って、我々は自分の力を捨てなければならない。自分の価値を捨てなければならない。いや、価値に捕らわれた思考を捨てなければならない。それが悔い改め、こころの向きを変えることなのである。だからこそ、我々は上席を選んではならないとイエスはおっしゃるのだ。我々は価値無き者として生きる。そのとき、神が与え給う恵みが真実に価値あるものとして受け入れられているであろう。神の力が真実の力としてわたしを造り替えるであろう。神の憐れみが価値無き者を救い給うとの信仰のうちに生きているであろう。この世の価値を離れ、神の恵みにのみ頼るであろう。

キリストの十字架における罪の赦しは、あなたに価値があるから与えられるのではない。キリストの十字架の前にひれ伏し、罪の赦しを求めるがゆえに、与えられる。求めない者にも罪の赦しは与えられているが、求めない者は受け取らない。自分にはキリストの十字架の価値に価するものがないと考える者も求めない。価値ある者となったとき、赦されると考えるかぎり、永遠に受け取らない。キリストの十字架は、赦されるに価しない者を赦す神の愛である。ただ赦し給えと求める者は、自らの価値に頼らない。ただ、神の約束に信頼する。みことばを信頼するあなたのうちに、キリストの十字架の言が受け入れられ、キリストご自身があなたのうちに生きてくださる。価せざる者を救い給う神の愛をあなたは受けるのだ。キリストの言葉に従い、神の愛のうちに生きていこう、価値無き者として。

祈ります。

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