「不可能性の認識」

2016年9月4日(聖霊降臨後第16主日)

ルカによる福音書14章25節~33節

 

「自分の所有に属するものすべてを放棄しないあなたがたのうちのすべての人は不可能である、わたしの弟子であることは。」とイエスは最後に言う。自分の所有に属するすべてのものとは、自分の家族であり自分のいのちであると、最初に語られていた。従って、家族やいのちまでも自分の所有に属するものと我々が考えていると、イエスは認識しておられる。そして、自分の所有の放棄がなければ、イエスの弟子であることは不可能であるとイエスは言う。その放棄の在り方を二つのたとえで語る。塔を建てる人と戦う王のたとえである。

塔を建てる人は建設費用を計算する。足りなければ完成させることはできないと認識するのだ。一万の軍勢で二万の軍勢を迎え撃つことはできないと認識すれば、平和に向かう事がらを願うであろうと言う。戦う王のたとえは、不可能性の認識を述べているが、建設の場合は不可能性の認識であろうか。費用が足りない場合は、建設費用に見合った塔の大きさを決めるということであろうか。それでは塔の役割を担わない塔になってしまうであろう。住まいとは違って、塔は費用に見合ったものを建てるわけではない。費用に見合ったものを建てても用をなさない塔になってしまうであろう。そうであれば建てること自体が無駄なのだ。見張りの用をなさない塔など建てる人は誰もいない。従って、足りない費用を認めて、建設の不可能性を認識したならば、建て始めることはないのである。それゆえに、まずはじっくり考えるのだ。

従って、イエスが今日語っておられることは、不可能性の認識が必要だということである。可能であるという認識に至るまでお金を貯めるということではないのである。王の話では特に不可能性の認識こそ重要なのである。不可能性を認識することでこそ自らのいのちを救うことができる。それは自分が救うのではなく、平和に向かう事がらを願うことで救われるのだ。つまり、攻めてくる王が自分を救うために自分の所有を放棄するのである。それが平和への事がらを願うことである。所有を放棄するということは、相手にすべてを委ねることである。これが、自分の家族、自分のいのちを憎むということである。その所有を放棄して、イエスにすべて委ねることである。所有の放棄によって、イエスの弟子であるということが可能となる。つまり、イエスの弟子は自らのいのちをイエスに預けるのである。家族のいのちもイエスに預ける。何故なら、自分が家族を守らなければならないという意識は、結局自分が彼らを所有していることになるからである。家族も自分のいのちも神の所有である。我々人間の所有は何もないのだ。ただ、神は我々にその使用を許してくださっているだけである。

我々は自分のいのちを神の所有だとは思わない。それゆえに、自分の力で救われることを望む。自分の力で神に受け入れられることを願うのである。ところが、この世のすべては神の所有である。それゆえに、我々は自分のいのちや家族を自分の力でどうにかすることなどできないのである。救うことなどできないのである。だからこそ、イエスはそれらを憎むことを勧める。憎むことが所有の放棄だと言うのだ。

我々は自分を愛している。自分の家族も愛している。自分のものだから愛している。この愛情は、自分のものを確保するという愛情、つまり執着である。この執着が我々を過ち導く悪魔の誘いなのである。執着するがゆえに、自分のものとして確保し、誰にも触れさせないようにする。こうして、我々は自分のいのち、自分の家族を神からも引き離すのだ。自分がどうにかしなければならないという責任感のようでいて、自分の所有に属するものとして縛り付けているのだ。これが我々人間の罪である。

このような人間の有り様を放棄しなければ、私の弟子であることは不可能なのだとイエスは言う。そうであれば、我々には不可能なのだ。我々は執着を放棄することができない。それゆえに、罪深い。それゆえに、他者を苦しめる。互いに縛り合って、泥沼にはまり込んでいるのだ。その我々が、自分の所有に属するものを放棄することなど自分からできようはずがない。それは不可能なのだ。究極的に我々にはイエスの命令に従うことは不可能である。この認識をこそ、イエスは求めておられる。

従って、我々はイエスの弟子であることなどできない。イエスの弟子であることの不可能性を認識すべきなのである。自分から、自分の力で弟子であることはできない。しかし、イエスにすべてを委ねるとき、可能とされる。それが戦う王が平和に向かう事がらを強い王に願うということである。そのときには、我々は自分の所有に属するものをすべて放棄し、別れを告げている。そして、ただわたしという魂だけがイエスに結びついている。イエスが神との間に平和を打ち立ててくださったのだから、イエスを愛するわたしという魂がイエスと結ばれることによっていのちを得るのである。

我々は自分の所有に属するものを担うのではない。自分のいのちさえも自分の所有を離れるとき、我々は何も持たない、何の力もない不可能性を認識する。そのとき、我々は自分の十字架を取っている。何故なら、十字架は負わされるものであり、自分で選ぶものではないからである。それゆえに、我々は十字架を選ばない。わたしに負わされるものを負う。わたしの所有ではなく、わたしが被るもの、それがわたしの十字架である。いのちを憎み、家族を憎み、所有を放棄してしまうとき、我々は何も持たない者とされる。何もできない者とされる。いや、もともと我々は何の力もない、何の所有もない、不可能なる存在なのである。それゆえに、神がわたしを生かしてくださらないかぎり、わたしは生きていけないのだ。神がわたしにからだと魂を与えて、いのちに必要なものすべてを与えて、生かしてくださるがゆえに、わたしは生きている。わたしのいのちはわたしの所有ではない。神の所有である。わたしの家族も神がわたしに与えてくださったのであり、わたしが生きていくために必要なのである。わたしという魂が神の所有として生かされ、神のものとして救われる。イエスの弟子であるためには、所有を離れたところにおいて認識される自らの不可能性の認識が必要なのである。そのとき、我々は自らに不可能である現実を引き受けざるを得ないものとして、被っているものとして、自分の十字架として取るのだ。そこにおいてこそ、我々はイエスの弟子であることを可能とされる、神によって。

あなたは自分の力でイエスの弟子であることは不可能である。自分の力でイエスの弟子であると思う者は、イエスに敵対している。イエスを憎んでいる。イエスを所有しようとしている。むしろ、あなたがイエスの所有であることを受け入れなければならないのに。我々がイエスの弟子である可能性は、我々の内にはない。イエスの内にこそある。我々はイエスの内にすべての可能を認識するのだ。それは、自分自身の不可能性の認識の裏側である。神の可能とする力は、我々の力を不可能とする。我々が自分の力を誇示できないようにする神の可能とする力。この力は、キリストの十字架において輝いている神の栄光である。キリストの御顔に輝いている神の輝きである。我々には闇に思えるキリストの十字架にこそ、人間の不可能性と神の可能の力とが啓示されている。キリストの十字架の前にひれ伏す者とされた者がキリストによって救われる。この信仰を与えられた者たちに、信仰をもって食し、飲むキリストの体と血が与えられる。

キリストの体と血は、我々が不可能に思える形で与えられ、神の可能とする力で我々を包む。我々の内に、キリストご自身が賜物として与えられ、我々の内にキリストが形作られる。こうして、我々の不可能性の中で、神の可能とする力による新しいいのちの一新が与えられていくのである。

あなたが不可能性の認識を保持するために与えられるキリストの体と血。あなたの罪、あなたの執着、あなたの悪を働かなくする力として、キリストの体と血はあなたの内に働き給う。感謝して受けよう、救いの賜物を。

祈ります。

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