「見出される救い」

2016年9月11日(聖霊降臨後第17主日)

ルカによる福音書15章1節~10節

 

「あなたがたの中のある人が百匹の羊を持っていて、その中から一匹が滅びようとしていたら、九十九匹を荒野の中に残して、滅びようとしているもののために行かないだろうか、それを見つけるまで。」とイエスはたとえを語り始める。イエスはこのたとえにおいて、神は滅びようとしているものを見つけるまで歩き続けるお方であると語っている。従って、「悔い改める一人の罪人の上に、天において、喜びがある」とおっしゃる言葉の「悔い改める」は「見出される」ことだということになる。つまり、神は見出して喜ぶお方であり、見出されることで人は悔い改めることになる。ルターが言うとおり、「わたしは自分の理性や力では、わたしの主イエス・キリストを信じることも、そのみ許に来ることもできないが、聖霊が福音によってわたしを召し、その賜物をもって照らし、正しい信仰において聖め、保ってくださった。」のである。さらに「聖霊は地上の全キリスト教会を召し、集め、照らし、聖め、イエス・キリストのみ許にあって正しい、ひとつの信仰のうちに保ってくださる。」ともルターは言う。

確かに、この羊も銀貨も自分で元に戻ることはできない。理性のない存在として羊と銀貨が出てくるのだ。それゆえに、自分から元に戻るなどということは起こり得ない。それゆえに、持ち主が見つけるまで歩き回り、探し回ることになる。本当に困った存在である。しかも、それは「滅びようとしている」という危機に瀕した存在だとイエスは言うのである。危機に瀕しても自分から救われることはない。救うお方がいなければ、危機から脱することはできないのだ。いないならば、すぐにでも滅びてしまうであろう。それゆえに、神は人を捜し回っているのである。その人を見出そうとしてくださるのは神である。

わたしは自分から神を見出したかのように思っている。自分から悔い改めて、神の許に来たかのように思っている。しかし、わたしのうちで神を見出させてくださったのは聖霊なる神である。わたしが自分で探そうともしていなかったのに、神に出会うときを与えてくださった聖霊の働きがある。その働きを受けているのに、わたしは自分で神を見出したかのように思い、悔い改めたかのように思う。これは仕方のないことではある。何故なら、人間は常に自分が何かをしていると思っているし、自分が何かを意志していると思っているからである。

我々のうちに思いを起こしてくださったのは、神である。その機会を作ってくださったのも神である。それなのに、探していて見つけたかのように思いこむのが人間なのである。これが人間の罪の思いである。信仰を与えられても、自分が信じていると思いこむ。救われていても、自分が救われるように求めたと思いこむ。こうして、すべてが自分の成果となっていくのである。つまり、信仰者であっても罪に引きずられてしまうのだ。何故なら、悪魔は我々が神から離れるように働きかけるからである。それゆえに、信仰者として生きるようになったときにも、悪魔の働きを受けているのだ。信仰さえも自分の力だと思いこむのである。こうして、人間は神に見出されたことを、自分で立ち帰ったと思い始める。この後に続く放蕩息子のたとえにおいても、同じように考える。息子が父の家を思い出したので帰ったと。思い出したのは、神が思い出させたがゆえに思い出したのである。我々は常に自分の行為から考える。そして、神を離れる。

では、滅びようとしている羊は自分の力でどこかに行ってしまったのだろうか。銀貨は自分の力でどこかに行ったわけではない。しかし、羊は自分で迷ったかのように思える。ところが、羊自体は迷っているとは思っていない。見つけられてはじめて、迷っていたことを知るわけでもない。見つけられても何で見つけられたのか、探されていたのかを認識しない。それゆえに、羊は自分で迷ったわけではないし、自分でどこかに行ったわけではない。迷っているとの認識もないのだから、ただ目の前の草に夢中になっていただけである。そして、滅びようとしていたのである。そうであれば、我々人間も同じなのだ。我々も目の前のことに夢中になる。これが大事だと熱中する。自分にとって大事なものを探し回って、神を忘れる。いや、別の神を求める。自分では滅びようとしているとは思っていない。人間も羊と同じである。理性など何の役にも立たないのだ。悪に引きずられる人間は理性で自分を制御できるわけではない。むしろ、悪に支配されて、罪の奴隷となる。自分の理性では、善い人間だと思い、神に従っていると思う。しかし、自分の理性で自分を制御できると思いこんでいる限り、我々は悪に支配される罪の奴隷なのである。

ルターが言うように「義しい者も、そのすべての善い行いにおいて罪を犯している。最善になされた善い行いもなお通常の罪である。」ということである。このような人間が自分たちは正しい人間であると思いこんでいるファリサイ派の人々や律法学者たちである。彼らが不平を言うことは、通常の罪である。彼らは罪人たちと食事を共にするイエスを批判しているが、それは最善に善い行いをなすことを求めるからである。この不平において罪を犯している。いや、罪の奴隷であることを露呈している。我々も同じであろう。ファリサイ派の人たちだけではなく、我々も同じような不平を述べるのだ。それは自分の力で正しくなったと思い上がっているからである。それゆえに、イエスは理性では何もできない状態にある羊や銀貨をたとえとして語るのだ。あなたがたは、神が見出してくださったから救われたのであって、自分から救われたわけでもないし、悔い改めたわけでもないのだと。

確かに、出エジプトの出来事もイスラエルの民が自分から出て行ったわけではない。神が出て行く道を与えたのだ。彼らが自分の理性で神を見出したのではない。神が彼らの叫びを聞いたがゆえに、彼らを救い給うたのだ。出エジプトの出来事がそうであれば、ファリサイ派の人たちや律法学者たちが自分で正しくなったと思い、罪人を招くイエスを批判するのは正しくない。罪の奴隷であるがゆえに、彼らは羊であり、銀貨であることを忘れてしまっているのだ。むしろ、罪人たちや徴税人たちの方が見出される救いを受け取っている。彼らは善い人間になったわけではない。見出され、連れ戻してくださったお方を知っただけである。そこから神の再創造の業が始まる。だから、悔い改めたことを誇ることはできないし、救われたことを誇ることもできない。ファリサイ派であることを誇ることも、律法学者であることを誇ることもできない。神が彼らの意志を起こして、そのようにしてくださっているだけなのだから。見出された羊や銀貨が自らを誇るはずはないのだ。同じように、我々も誇ることはできない。ただ、見出してくださったお方に感謝するだけなのだ。

ところが、神は、ご自分で見出しておきながら、見つけたので喜んでくれとおっしゃるお方なのだとイエスは言う。これも不思議なことである。誰かが見つけてくれたのならば理解できる。その人を招いて、感謝を表す宴を催すであろう。しかし、自分で見つけ出して、何もしていない人たちを招いて、喜びの宴を催すと言うのだ。我々にしてみれば、これは異常なことである。誰もそんなことはしないと思えることである。それなのに通常のことであるかのようにイエスは言う。天における喜びとはそのような異常なことなのだと言うかのように。

そうである。救われるということは異常なことなのだ。人間が自分の理性と力で救われるならば、我々は通常に皆救われるであろう。しかし、救われるのは少数である。何故なら、皆自分で救われようとするからである。自分で正しくなろうとするからである。自分で神を信じようとするからである。こうして、我々自身が神を拒否するからである。

神を信じるということは、わたしは何もできないということを認めることである。わたしは罪の奴隷であると認めることである。そのとき、神が羊や銀貨のようにわたしを見出してくださったことを認めるであろう。あなたは見出された者、救われた者、天における喜び。わたしを喜び給う神に感謝しよう。

祈ります。

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