「信仰の力」

2016年10月2日(聖霊降臨後第20主日)

ルカによる福音書17章1節~10節

 

「あなたがたは言いなさい、わたしたちは価値無き奴隷です。わたしたちが行うように負わされていることをわたしたちは行ってしまっています、と。」とイエスは言う。奴隷というのは行うように負わされているものがあり、それを行うことが奴隷としての務めであるということである。それゆえに、当たり前のことをしているだけであり、「何も誉められることはしてないし、誉められる価値など持ってはいない」と言うようにと、イエスはおっしゃる。

では、弟子たちは奴隷なのか。誰の奴隷なのか。神の奴隷である。神に命じられていることを行うことは当たり前のことであって、何も誉められることではない。むしろ、行わないことで、価値無きところであるゼロ地点から、罪のマイナス地点に落ちるのである。ということは、ゼロ地点にいることさえも自らではできないのが罪に堕ちた人間なのである。それゆえに、そこから救い上げられてゼロ地点に置かれた者が行うことは誉められることではない。当たり前のことである。本人も当たり前と自覚していることである。それが罪の奴隷から救われ、解放されて、神の奴隷として生きるようにされた者の姿である。

我々人間は、罪に支配された罪の奴隷として生きるか、神のみことばに従う神の奴隷として生きるか、どちらかである。神のみことばに従う神の奴隷は信仰によって生きる。罪の奴隷として生きる者は信仰なしに生きる。罪の奴隷は、信仰なしであるがゆえに、その人の生きる力は罪から来る。罪の力がその人を動かす。罪の力に従う方が楽だからである。楽な方に流される者が罪の力に動かされている者である。

他者を赦せるか否かも、赦せないという楽な方で生きる。如何にして赦せるようになるかとは苦闘しない。神に祈ることもしない。神の命令であるがゆえに従うという方向にも行けない。何故なら、信仰が与えられていなければ、神の言に従う力は自然的人間にはないからである。桑の木が海に根を下ろすという不可能さえも、信仰が「あれば」そうなるとイエスは言う。それは不可能であろうと思う。しかし、「信仰があれば」とイエスは言うのだ。その信仰は「あるか」、「ないか」であって、その大小は問題ではない。むしろ、大小を問題にする人は信仰を与えられていないのである。

イエスが語るように信仰があれば不可能は可能であるとすれば、我々が他者を赦せないという不可能も可能となる、信仰によって。その信仰は、神の命令に従うのだから、何も誉められることをするわけではない。誉められるために行うわけではない。ただ神の言に従うのである。このような信仰をイエスは今日語っておられる。

我々が他者を赦せないのは、我々の感情が邪魔をするからである。赦せないという感情に支配されているからである。この感情が我々の人間性であるならば、人間性自体が罪を犯すのである。その人間性が造り替えられるには信仰が必要である。しかし、信仰が我々が信じる力であるならば、我々を造り替えることはできない。我々は自分で癒されることはないからである。むしろ、我々の力ではない信仰こそが我々を癒し、造り替える。それゆえにルターはこのように言うのだ。「わざが神に喜ばれるのは、わざそのもののためではなく、信仰のためであり、そしてその信仰は、わざがどんなに数多く、またどんなに相異なっていようとも、すべてのわざの一つ一つの中に、唯一のものとして、差別なく存在し、生きてはたらくからである。」と「善きわざについて」の中で語っている。さらに、「あらゆる尊い善きわざの中で第一の最高のわざは、キリストを信じる信仰である。」とも語っている。従って、キリストを信じる信仰こそが善きわざの源泉である。その信仰は神の働きであり、我々が信仰の内で行うすべての業の中に働いているのだとルターは言う。この信仰を我々は与えられているのだということを忘れてはならない。従って、信仰は大小ではなく、ただ一つなのである。

この信仰を与えられた存在も、罪を負っている存在である。罪深き存在に信仰が与えられてもなお、罪深き肉が生きている。それゆえに、我々は信仰によって、罪の肉に対抗して生きなければならない。罪の肉が「他者を赦せないのは人間性なのだから、それで良いのだ」と唆しても、我々キリスト者は祈るのだ。「いや、キリストは赦しなさいとおっしゃったのだから、そのみことばのようになるのだ。そのためにキリストはわたしに信仰を与えてくださったのだから。今、わたしがそうなっていないのは、わたしの罪の肉が邪魔をしているからである。どうか、キリストがわたしの罪を働かなくしてくださり、信仰の内に生かしてくださるように」と祈る。

祈り求めて、信仰によって他者を赦すことが可能となったとき、我々は「行うように負わされていることを行ってしまっている価値無き奴隷です」と告白すべきなのである。わたしがなした業は、あなたの信仰が働いてなさせてくださった業ですと告白すべきなのである。わたしの力ではなく、あなたが与えてくださった信仰の力なのですと告白すべきである。

わたしが赦せないということは自明のことである。自然的人間、罪に支配された人間には赦すことはできない。赦しは神の事柄だからである。しかし、神の霊によって導かれる者は、信仰によって赦すことを可能とされる。こうして、我々は神の支配に服する神の奴隷として生きるのである。それゆえに、我々は自分の力を誇ることはできない。むしろ、信仰の力によって、自分を誇らず、神を褒め称えるのである。

この信仰を神が与えてくださるのは、キリストの十字架においてである。我々が努力して獲得するのが信仰ではない。我々が理性で理解するのが信仰なのでもない。我々が理性でも自分の力でも、克服することができない罪を自覚することが大事なのである。この罪の自覚さえも、神が開いてくださらなければ起こされない。理性によるならば、我々は罪を克服することができると思い上がる。理性による罪の自覚は、理性で把握可能な範囲の罪である。理性で把握できない根源的な罪は理性によっても捉えることができない。理性で把握可能な罪は、我々が行為として、言葉として、外に表したものだけである。それを生み出す罪を我々は理性では把握できない。把握するためには、神のみことばが必要なのであり、みことばと共に働く聖霊が我々に開いてくださらない限り、我々は根源的罪を認めないのである。この根源的罪をパウロは「わたしのうちに住んでいる罪」と語った。住んでいる罪が、わたしに外的な罪を犯させる。それゆえに、外的な罪を犯さないようにすることでは、根源的罪がなくなることはない。罪の奴隷であるということは、根源的に罪に支配されているということである。この支配から抜け出すことは我々にはできないのである。

この不可能性を認識させる神のみことばによってこそ、我々は自分の力に真実に絶望するであろう。真実に絶望して、自分の外に助けを求めるのである。そのとき、我々は神が与えてくださった信仰の内に生きていると言える。この信仰によって、我々の人間性そのものが癒され、神の言に従うように造り替えられていくのである。

神は、ご自身に不可能なことを求めているのではない。神によって与えられる信仰の内に生きることを求めておられる。信仰を与えられているならば、人間的に不可能なことも可能とされる。赦せない人間が赦すことが可能となる。もちろん、わたしは人を赦したと自負することもない。赦しは手放すことだからである。わたしの感情が捉えて放さないものを手放すことが赦しなのである。赦した人は赦しを数えない。七回赦すとは、数えないで完全に手放すことを語っているのである。

キリストの十字架において、神は我々を赦し給うた。神は我々の罪の数を数えない。我々が新たに造り替えられ、神の支配に服する奴隷として生きるために、キリストの体と血を与えてくださる。感謝していただき、信仰の力の働きに与ろう。

祈ります。

Comments are closed.