「新たに立つ」

2016年10月9日(聖霊降臨後第21主日)

ルカによる福音書17章11節~19節

 

「見て、彼は彼らに言った。行って、見せなさい、自分自身を、祭司たちに。」と言われているが、イエスは何を見たのだろうか。もちろん、視覚的には重い皮膚病であるライの人たちを見たのである。しかし、そのうちに働く神の意志を見たのであろう。イエス自身は「癒されよ」とも「清くしよう」ともおっしゃっていない。イエスが言ったのは「見せなさい」ということだけである。つまり、彼らが癒されることをイエスは「見て」、彼らに言ったのだ。「祭司たちに自分自身を見せなさい」と。

彼ら十人の者たちは、イエスの言に従って、祭司たちのところへと向かった。サマリアとガリラヤの間にある村から出かけた。祭司たちはどこにいるのか。エルサレムとサマリアである。サマリアもエルサレムも向きとしては同じ方向。彼らはいっしょに出かけた。しかし、サマリア人だけが戻ってくる。エルサレムに共に行くことができないからだとも考えられるが、向きがいっしょであれば、途中で分かれれば良いだけである。エルサレム組の九人はそのまま進んでいくが、サマリア組の一人だけが戻ってきたのである。

戻るという言葉は、ヘブライ語ではシューブと言う。ギリシア語のヒュポストゥレフォーは「背後に転じる」という意味で、向きを変えることを表すが、ヘブライ語では生き方全体の向きを変えることを表す言葉でもある。それは神の許に帰ることを表すときにも使われる。ギリシア語のメタノイア悔い改めと同じ意味をも持っている。ということは、サマリア人の一人だけが、生きる向きを変えて、神の働きの許へと帰ってきたということである。イエス自身が彼らの内に神の意志の働きがあると見た、その地点へと帰ってきたのである。「彼は神を栄化する大きな声と共に戻った」と記されている。

神を栄化すること、神に栄光を帰すること。これは信仰の行為である。神が神であることを認めることであり、神を輝かせることである。信仰がなければ、神を栄化することはない。すなわち、彼が戻ってきたのは、信仰を起こされたからである。他の人たちは、信仰を起こされなかったのか。シューブする、戻ることがなかったのだから、彼らは癒されただけであり、信仰を受け取らなかったのである。癒されたことを通して、サマリア人は信仰を受け取った。それゆえに、神を栄化するために戻ったのである。それは、悔い改めであった。信仰を受け取ったとき、人は悔い改める。今までの生き方の向きを変えて、神に向かって生きる。それはまず神に向かうことに始まる新しいいのちである。

信仰の生は、神に向かうところから始まる。信仰を与えられた者は、神に向かうところから新しいいのちを生き始める。すべては神から、神を通して、神へと生きていると、使徒パウロがローマの信徒への手紙11章36節で語る通りである。神から始めない者は信仰を生きていない。何故なら、我々はすべて神から与えられて生きているのだから、神から受けることからしか我々のいのちは始まっていないのである。使徒パウロは第一コリント4章7節でこうも言っている。「あなたがたは何か持っていますか、受け取らなかったものを。もし、受け取ったのであれば、何故、誇るのですか、受け取らなかったように。」と。我々が生きる上で必要なものだけではなく、我々のいのち、我々の世界、我々の魂もからだも、我々は与えられているのであって、自分で造りだしたわけではない。それなのに、すべてを自分のものであるかのように生きている。すべては自分が造り出すかのように生きている。神を知りながら、神を認めることなく、生きている。信仰を受け取っているならば、神の働きを認めるであろう。何故なら、信仰とは、自分が認めうる何かを信じるということではなく、信仰を与え給うお方のすべてに信頼することであり、全面的に委ねることだからである。信仰が与えられるということも、受けるしかないことである。それゆえに、信仰を与えられているならば、すべてを神の賜物と信頼して生きるのである。

癒されたことを見て、サマリア人は戻ってきた。癒されたことを見るということも信仰の働きである。他の人は、祭司に見せて、漸く癒されていると宣言される。祭司たちは、病気が進行を止めていると確認し、「癒されている」と宣言するのである。それには時間がかかる。サマリア人は、祭司の確認を経ずとも、自ら「癒されているのを見た」のである。それは神が癒してくださったことを見たのであり、彼自身の魂が癒されたことを見たのである。それが彼に与えられた信仰の働きである。サマリア人は、人間に確認してもらうことがなくとも、神の癒やしを見た。これこそが彼に与えられた信仰である。信仰を与えられた彼は、必然的にシューブする、生きる向きを変えられる。こうして、彼はイエスが神の働きを認めた地点へと戻ったのである。

その信仰をイエスは認めて、彼に宣言する。「あなたの信仰が、あなたを救った」と。それは、「あなたが神の許に帰ったことに現れている信仰の働きをわたしは認めた。あなたのうちに働いた信仰があなたを救ったのだ。」という宣言である。この宣言を通して、イエスは新たに生き始めたサマリア人を励ますのである。「新たに立って、歩きなさい」と。

「立ち上がって、行きなさい」という言葉は、サマリア人がイエスの足下にひれ伏している状態から「立ち上がって、行きなさい」ということのように思える。しかし、「立ち上がる」という言葉は、アニステーミというギリシア語で、アナ「新たに」とヒステーミ「立つ」という言葉でできている。この言葉は、再び立つという意味でもあり、上へと立つという意味でもある。また、復活を意味する言葉でもある。従って、伏している状態から立ち上がれとサマリア人に命じたかのようでいて、実は彼に与えられた信仰によって「新たに立って、歩きなさい」とイエスは言われたのである。

今までの生き方ではなく、神に信頼して、神に向かって、新たに立って、歩きなさいとイエスは命じた。これが信仰によって生きることであると。信仰を与えられたならば、新たに立つ。信仰の働きに与っているならば、復活している。今までとは違ういのちを生きている。信仰の働きによって、我々は神のうちに生きるようにされるのである。それまで自分の思いに従って生きていた者が、神の意志に従って生きる。重い皮膚病を患っていたライのサマリア人は、神の意志を信頼できなかったであろう。神に与えられた自分のいのちを恨んだであろう。どうして、わたしはこのように生まれさせられたのだろうかと、神などいないと思えるところに生きていたであろう。しかし、イエスに出会うことによって、十人の者たちはすでに神の働きを受けていた。彼らが受けていた神の働きをイエスは認めた。イエスの言に従った彼らは、すでに癒やしの中にいたのである。この時点で、彼ら十人は癒されつつあった。その癒やしの中で、さらに信仰を受け取り、神に与えられたものを確信することができたのは、サマリア人だけであった。ここには、受け取るという主体性がある。与えられても、与えられたと思わない者、偶然良くなったと思う者は、与えられたものを人間に確認してもらい、良くなったこと、清くなったことを幸いとは思うだろうが、神に感謝することはない。そこに信仰はない。神に与えられたものを認めるのは信仰のみである。受け取ったものを受け取ったと認めるのは信仰のみである。単純に受けるだけなのだが、この単純さの中にこそ神の意志に従う受動的主体が生きているのである。

信仰とは受動的な主体である。能動的な主体は、自分のうちにあるものしか認識しない。現象的にあるものしか認識しない。受動的な主体は、何もないわたしに神から与えられたものとしてすべてを認識する。それゆえに、与え主に感謝し、神を栄化するのである。我々に与えられている信仰は、このような信仰である。あるものをあると認めるだけではなく、すべては神の働きであることを認め、神に信頼する。それゆえに、人間を恐れることはない。わたしに与えられた信仰の働きのうちに、新たに立って歩きだそう。神から、神を通して、神へと。

祈ります。

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